みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

趣味に思う事

日本は山紫水明の国、美しい季節がその都度我々を迎えてくれますね! 更科にいた時は四季の移ろいは当たり前でしたが、今となれば貴重な経験でした。有り難い事に我々渓流釣り師は、季節により渓魚のいる場所や様々な自然を理解しなければ釣りに成りません。他の趣味と比べて季節をハッキリと感じる事が出来る事が長年継続出来ている理由のひとつかも知れません。
 
解禁時には雪の谷を釣る事もありますf:id:rcenci:20200216051742j:plain

春一番の晴れた渓流は静寂の中に水が岩場を流れ落ちる音が響き、とても美しい世界です。この時期は立木に葉が無いのでリスやキツネなどの小動物が出迎えてくれますよ。
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我が故郷の更科も今年は雪が降らずに極端な暖冬と母親の話です。更科と比べると暖かい町田市では梅の花が五分咲きで良い香りがしております。 梅の花は最初に咲く花であり、春の訪れを告げる可憐な美しい花だと思います。古くから日本人の文化に溶け込んでおり、刀装具など様々な物に用いられております。花は美しく、実は日本人の食生活に馴染んでる事を考慮すると、日本人にとってこれ程有益な樹木も少ないのではないかと考えます。そんな訳で話はガラッと変わりますが、梅の時期に我が家に飾る趣味の物をご紹介致します。

七宝旭光釉梅詰文花瓶 安藤七宝店
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蓋の箱書です
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30代の頃に友人の親の告別式で銀座に行き、帰りがけに一目惚れしてしまった七宝焼の花瓶です。その時は待ち合わせが不足し、手付金を支払って、残りは後日銀行振り込みを行い、品物は送付して貰いました。七宝焼は骨董商であった祖父が大事にしていたので昔から関心がありました。七宝の歴史はとても古く、日本には6〜7世紀頃に伝わったと言われております。しかし、七宝焼の技術が劇的に進化したのは1880年から1910年における30年間であり、進化を遂げた国は明治期の日本なのです。当時の日本は外貨獲得の為に海外向けに造られた物が多く、残念な事に当時の名品は殆ど海外のコレクターの元に有ります。この七宝花瓶は尾張名工、安藤重兵衛から130年続く安藤七宝店で制作された物です。私は現在50歳まで後1ヶ月ですが、此の花瓶を勢いで購入した30歳半ばよりは少しだけ思慮深くなったので恐らく今なら買いません! 

七宝赤透釉梅鶯文花瓶
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七宝焼にも様々な手法が存在いたしますが基本は有線七宝です。銀や銅などで下地を作り、下絵を施した上に細い銀線で輪郭を作り、輪郭の中に釉薬を差して焼成し、研磨を施して仕上げる手法です。七宝焼の色につきましては、明治期の職人の皆様が気の遠くなるような試行錯誤を繰り返し、様々な色を開発致しました。その中で現在でも難しく、最高難度の釉薬が『赤透』なのです。当時に於いて海外では最高級ルビーに送られる称号である『ビジョンブラッド』に勝るとも劣らないと評価されたと伝わります。 

下地に彫られた竹の葉が確認できます
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七宝焼もそうですが、明治期の日本は本当に凄かったと思います。昨今の『我良し』の精神では絶対に出来ない事ばかりであり、日本という『公→おおやけ』の為に同じ方向に向かい、軍人も職人も商人も志を一つにしたのだと思います。此の七宝焼の分野に致しましても紀元前14世紀のツタンカーメン王の黄金マスクに使われた七宝から数千年間の頂点を明治期の日本人職人が極めた事になりますね。七宝焼に留まらず、優れた日本文化はもっと国内でスポットライトを浴びさせるべきだと思います。