みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

横山党縁の神社 八幡八雲神社

我が家近くの相原の信号ですf:id:rcenci:20200201120919j:plain

私の住んでいる町田市相原町は古い呼び方を栗飯原と言います。全く同じ読み方ですが字が全く違いますね! 町田市相原町に家を建て19年に成りますが、周辺の歴史について少し綴ります。住う地域の歴史を知る事は現在其処に住む事に対し、土地の祖霊への畏怖と感謝につながり、郷土愛を育む礎となると私は考えております。

相原の地名の元となる栗飯原氏は平安時代の武蔵七党最大である横山党の一派です。現在の八王子市槍水の御殿峠に栗飯原氏の居館が存在していたと伝わります。お城を建てる場所は、まず水の手の確保が必要であった事は大南公の千早城籠城でも有名な事ですが、御殿峠を擁する八王子市槍水の地は山に節を抜いた竹を突き刺すだけで水が出て来た事から『槍水』と言われていたと地元の古老から聞きいた事が有ります。武家の居館とするには周囲を見渡せる丘陵を利用した立地と合わせて好条件だったと考えます。然し....その栗飯原氏も鎌倉時代初期の有力御家人である幕府侍所別当.和田義盛が執権北条氏の謀略により反旗を翻した建暦3年(1213年)5月の和田合戦に於いて当主栗飯原朝秀と3人の子が武運拙く討たれてしまい滅亡致しました。栗飯原氏は横山党野部(横浜線矢部駅周辺を所領)氏の一族と伝わります。横山党本体も和田合戦に於いて壊滅的な被害を出しました。
 
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武蔵七党最大勢力の横山党は和田合戦に対し義を通す為に一族あげて与しました。和田合戦初戦は和田義盛率いる和田氏と同族である三浦義村の軍が将軍御所を攻める段取りでしたが、三浦義村の直前の寝返りにより、和田一族は人数的に不利のまま将軍御所襲撃に及び、前半戦は押したものの、時間の経過と共に増える幕府軍の前に力を削がれ、多くの猛者が討ち死にし、由比ヶ浜まで退却致しました。此処で縁戚関係にある横山党三千騎が義に従い駆けつけて和田氏は勢いを取り戻しました。其処で再度幕府軍と戦いましたが、幕府側に寝返る武将も多く現れて敗色の色が濃くなり、やがて名門和田一族は討ち取られました。横山党も多くの武将が討たれて敗走致しました。結局は此の合戦で横山党は大きく勢力を削がれてしまい、実質表舞台から名を消してしまきました。
横山党についてもう少し触れますと、横山党は同族が七十家に及ぶ武蔵七党中最大の勢力です。武蔵國多摩郡横山庄(今の八王子市横山町)に拠点を置いて、埼玉県の奥から神奈川県の海側まで広く勢力を持ってました。横山氏の出自としましては第5代孝昭天皇の皇子である天足彦國押人命の子孫であり、有名な小野小町小野篁と孫の小野道風などを輩出した小野一族です。武蔵国国司として派遣された小野隆泰が石清水八幡宮を此の地に勧進し、現在も八王子市横山町に八幡八雲神社として地域の厚い崇敬を集めております。多摩郡の横山庄は当時において名馬の産地として広く知られており、やがて勅使牧(国が経営する牧)となりました。その勅使牧の長に一族の小野義孝が任ぜられ、名を横山と改めて此の地を治めました。此の事が横山義孝か横山党の祖と成った経緯です 。

八幡八雲神社拝殿 街中に鎮座されておりますf:id:rcenci:20200201121002j:plain

東京都教育委員会による説明書きf:id:rcenci:20200201121021j:plain

横山義孝公を祀る横山神社 空気が引き締まった様な気高い雰囲気がございましたf:id:rcenci:20200201121101j:plainf:id:rcenci:20200201121125j:plain

小野一族は清和源氏と深い結び付きが有り、源氏の嫡子誕生日には『引目、鳴弦の神事』を行っておりました。嫡子の前で弓を引く事になるので、源氏と小野氏は相当に強い間柄であったと思われます。また義孝の孫である経兼は奥州で勃発した清原氏安倍氏の争いである『前九年の役』で先陣をつとめて、見事敵将安倍貞任の首級をあげました。またその子孫は保元.平治の乱、一ノ谷、屋島、壇ノ浦など歴史を代表する合戦のほとんど全て参戦し、世の中の平穏な為に殉じました。横山時重の妹は頼朝公の命の恩人で鎌倉幕府重鎮である梶原景時の御母堂です。同じく時重の娘は鎌倉幕府侍所別当和田義盛の妻です。先の文中での説明の通り和田合戦で多くの横山党武士が討たれましたが中には後世まで名を残した一門もおります。日本国最大の地主と称された豪商酒田本間家は『本間さまには及びもせぬが、せめて成りたや殿様に』と言われた程の栄華を誇りました。昭和22年に行われた農地改革で地主制度が解体されましたが、酒田本間家は横山党の海老名氏流の本間一族末裔として多いにその名を世の中に知らしめました。横山党は一族の数が多く、とても此の欄のみで治るものではございません。現在でも私の渓流釣りシーズンオフにおける研究テーマの一つです。また折あるごとにご紹介致します。

現在でも八幡様八雲神社が鎮座する場所は横山町と言います。f:id:rcenci:20200201121220j:plain