みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

千曲川 イワナ釣り 梅雨明け前

梅雨明け宣言の前にイワナ釣りに行ってまいりました。出走前の深夜に、煙草を吸いに外に出ていた隣人に御会いしたので立ち話をしていると、私が居なかった2年間の間に奥様と離別されたという話を聞きました。『え〜〜!』私も町田に帰って来てから奥さんと娘さんを見かけないので不思議でしたが、やっと理解致しました。『〇〇さんから頂いたイワナを家族で美味しく食べてた時は良い関係だったのですが...』との話をされたので、『じゃ景気づけに美味しそうなイワナを釣って届けるよ』と意気込んで千曲川に向かいました。

隣人の話を聞いて、何となくモヤモヤしておりましたが、朝霧煙る川に立つと一瞬で吹っ飛びます。やっぱり渓流は体の芯から癒されます。
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向かったのは通い慣れた杣添川の中流です。此の川はかつて下流部が本命のポイントでしたが、現在は釣れないのか、殆ど入渓者を見る事が有りません。私のイワナ釣りの最大寸は32年前の62.2cmですが、此の川の本流合流部で釣り上げました。シマノの中継ぎ本流竿をへし折られ、翌週にマミヤOPの狭本流に1.2号を張って仕留めたのです。

今回は此処からスタートです。今日は千曲の龍神さまに『ツ抜け』まで許して下さいとお願い致しました。『ツ抜け』とは1ツ....2ツ....3ツ....と数える時に10引きになると『ツ』が取れる事から10匹以上の事をさす専門用語となります。
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良いポイントが続いて次々に食べ頃サイズが竿を絞ってタモに治ります。どうやら今日のイワナは上を向いている様です。4号玉で表層を釣った後に3Bをかまして底層を狙うと残りモノが釣れてまいります。此の釣れっぷりは過去に大分やらかした(釣り過ぎた)釣れっぷりでした。1時間10分で目標まで到達しましたので竿を仕舞いました。
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千曲川龍神さまに川の幸をいただいた事を御礼申し上げた次第です。
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魚の処理を済ませ、遅い朝ご飯(昆布オニギリ3ツとナスの浅漬け)を車中で頂いてから出発致しました。海ノ口から川上村に通じる市場坂を登ると霊宝八ヶ岳が見えてまいりました。今日はクッキリと実に美しい稜線です。

車を止めて、撮影してしまいました。
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町田の家に着いたら、山から取って来た熊笹をお皿に敷いて千曲の天然イワナを7匹載せ、幸運と共に隣人に渡そうと帰りの車中で考えながら運転しておりましたら、急な睡魔に襲われ、野辺山駅を過ぎた辺りのパーキングに滑り込みました。時計を見たら時間はまだ9時20分でしたので2時間ほど寝る事に致しました。龍神さまから授かったイワナが、気の良い隣人の心を『追い風』に向かわせる事を願った次第です。

置屋主人が所持していた脇差

更級の実家の近くに戸倉上山田温泉と言う地元民も通う大きな温泉街がございます。信濃は温泉天国でも有り、其々の地域で泉質の違うお湯が楽しめますが、此方は単純硫黄泉という泉質となります。

戸倉上山田温泉千曲川を挟んだ大きな温泉街です。 ちくま大百科さまより
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此処は古くから善光寺の精進落としの湯として振るわっておりました。そんな温泉街で置屋さんを営んでいた方に嫁いだ女性がおりまして、主人が他界された後で景気後退を受けてしまい店を閉めました。そして其の女性は主人が残した遺品の脇差を実の兄に預けたのです。其の兄が我が母の知り合いで有りまして、今回其の脇差を拝見させて頂く機会に恵まれました。因みに母の知り合いは腕の良い大工さんであり、我が家を格安でリフォームしてくれました。よく有る事では有りますが、此の大工さんは刀剣類には全く興味が有りません。

戸倉上山田温泉は何処となく懐かしさを感じる温泉街です。Wikiより
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今回の3連休を利用し更級へ娘達と帰省致しました。名古屋にいる下の娘も特急しなの号で帰ってまいりました。そして私は母と大工さんのお宅に菓子折りを持って伺ったのです。

大工さんに早速脇差を拝見させて貰い、脇差を三口をいくばくかのお金で譲って貰いました。まず目に止まったのは良く練られた鍛え肌が出ている磨り上げ無名の脇差でした。だいぶ研ぎ減っておりますが、恐らくは備前物の清光辺りでは無いかと思います。大磨り上げ無名とは刀を下からチョン切って短く仕立て直した物の事です。後の二口は正直申し上げて二束三文でしたが些少なお金で買わせて貰いました、

鍛えの良い無銘擦り上げ脇差の全体像です。コンディション的には研ぎ減りで焼き刃が細くなっている以外は刃先に極小さい点錆が有る程度です。
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上から撮影しました。細身なので長く見えますね。刃文は細いのたれに成っております。
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古の刀鍛冶が鍛錬した此の鍛え肌を見てください。鉄は時代が降る程に不純物が少くなり、刀の鍛え肌も均一に詰む様になります。
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古刀でないと此の肌は出ません。恥ずかしながら、私が古刀の蔵刀が少ないのは在銘の正真物は高価で中々買えないからです。
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鍛え肌が明瞭になる撮影をしてみました。差し表側(腰に帯びた時に正面になる面の事)の肌が特に良く練られております。此の写真では表現できて無いのですが、鎬寄りに棒状の映り(刀の専門用語)が見て取れます。
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此の鳴門の渦潮の様な肌がお分かりになりますでしょうか。懐中電灯の光を当てて薄暗い部屋で撮影しました。
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切先付近です。切先は品の良い小さめの切先です。写真では分かり難いのですが、焼き刃は本当に細くなって残っております。
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ハバキは凝った庄内ハバキで、豪華にも銀の一重(ひとえ)です。専門の白金師(刀の金物を造る匠)に発注すると、もっとシンプルなもので40,000円〜50,000円くらいの費用が掛かります。
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刃方の細い部分まで鑢の技巧が施されております。ハバキは刀一口づつの完全オーダーメイドに成りますので、此の脇差以外にはサイズが合わず、仮に他の刀に装着出来たとしてもガタついてしまいます。此のガタつきを『鍔鳴り』と表現し、昔から武士の恥とされました。従って時代劇で主人公が刀を構える時にガチャっと音がするのは残念な仕草となります。
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磨り上げの仕事も丁寧です。磨り上げと簡単に書いてますが、磨り上げは実際に難作業なのです。まず鑽(たがね)で中心の下を必要な分だけ切り落とします。其処から鑢で削り込む訳ですが、焼き刃の部分は硬すぎて鑢が掛からない為に、焼き刃を鈍(なま)してから鑢を掛けます。鈍すには真っ赤に焼いた銅などを焼き刃に当てて焼きを戻し、ハバキが止まる様に刃区と棟区を造ります。しかし鈍し過ぎてもダメなのでギリギリの調整が必要となるのです。鈍し過ぎると焼き刃は刀の命なので美観を損ねてしまうのです。
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棟側の凹凸を専門用語で棟区(むねまち)と言いますが、其の直ぐ左の鎬地に白く研がれた四角い部分が有ります。其の四角い部分の中に『流し』と言われる縦線が存在し、研師が研ぎが仕上がった証とされております。この本数が奇数だと室町時代から連綿と続く本阿弥家系列の研師の仕事で有りまして、偶数だと刀剣研磨の人間国宝である藤代松尾氏の系列だと言われております。此の脇差は7本なので本阿弥系の方の仕事となります。
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中心棟区下には磨り上げなのに化粧鑢がかけられております。刀は実用品だったので磨り上げて脇差に加工し直すなど、当時は実にエコでした。因みに着物も糸を解して切断面を縫い合わせると再び反物になって所得の低い方々向けに再利用されます。よくよく考えてみると凄いエコ社会の仕組みが存在していたと思われます。
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後のニ口は一応拵え付きですが、真っ赤な錆脇差君と鍛え割れ出まくり脇差さんで有り、美術的な価値が著しく低く、正直申し上げてガラクタの部類に入ります。母がお世話になっている日頃の感謝も込めて二口で2万で購入致しました。名義書き換え後は実家の押し入れで肥やしになると思います。
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母の知り合いである大工さんは『コレで刀剣類が処分が出来て良かった』と喜んでくれました。私はゴールデンウィークに母の実家から授かった正雄(山浦真雄)と三尺余の大太刀を研磨に出したばかりなのですが、此方も研師さんに追加で出そうかと思っております。

何故か最近になって私の元に刀剣類が集まる様になってまいりました。刀剣商は『刀が刀を呼ぶ』と仰る事が有りますが、本当にそうなんだと感じております。其の上は『名刀が名刀を呼ぶ』らしいですが、中々そうは行きませんね(笑)。同じ様に『不幸が不幸を呼ぶ』や『幸せが幸せを呼ぶ』も本当かも知れません。そう思うとキツい時でも前向きに成って、『笑う門には福来る』状態にする事は必要な事かも知れないと感じた次第です。

千曲川水系のヤマメを狙う

今週も千曲川の風を感じたい事と、娘が『ヤマメを食べたい』と言ったので千曲川水系の支流に入りました。我々の様な渓流釣り師にとって、家族の『食べたい』は魔法の言葉です。今回の支流は何時もの小海よりずっと下流になり、所々三面護岸が施されておりますが、ピンポイント的に食べ頃のポッチャリヤマメが釣れる貴重な河川なのです。

土曜日は朝寝坊をかましてしまい、現地に到着したのは7時くらいでした。急いで気構えていると、足下に小さい黄緑色のカエルさんがおりました。そして其の向こうには小さなゲジゲジさんが居たのです。

カエルさんがゲジゲジさんを食べようとしているのかは分かりませんが、お互いに動かなかくてジッとしております。カエルさんの食事の邪魔しては悪いと思って釣り場を移動しました。カエルは『無事に帰る』に繋がる縁起の良い生き物で、渓流釣り師にとっては愛すべき存在だからです。因みにゲジゲジもダニとかを捕食する益虫なのです。
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仕方なく本流の合流辺りまで戻って仕切り直しです。秋には遡上モノも出ますが、この時期は小ぶりですが居付のポッチャリヤマメが竿を絞ります。
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今日は何時もの大物竿では無く、シマノの寒流NI.硬硬調5.5mです。渓流竿では無く小物用の清流竿となります。其の清流竿に張る仕掛けは4.5mの0.3を通しで使い、浮き玉目標2個付けの木曽釣方で挑みました。此れは今は亡き木曽の尾崎広丸親方直伝の釣方なのです。既に25年ほど前ですが、此の寒流と言う竿で○戸川下流部の堰堤で2尺のイワナを釣り上げた我が釣友会の名誉会長の顔が脳裏に浮かびしまた。ランディング時には別の釣友が腰まで浸かっての大格闘でした。

実際の釣りに話を戻します。一投目から堰堤の白泡の切れ目を仕掛けが通過すると浮き玉目印が勢い良く落口に消し込みました。此処のヤマメは何故か細いミミズが大好きですから、きっと『水ミミズ』が多く居る川なのでしょう。寒流NIは綺麗な曲線を描いて丁度食べて一番美味しいサイズが4匹釣れました。
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今度は上流部に移り、先程カエルさんが居た場所に来てみました。踏まない様に注意して辺りを見回しましたが、もうカエルさんもゲジ君も居りませでした。
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少し上がると大きな沈み石が入る良さそうなポイントに来ました。以前はこんなポイントは無かった気がします。基本的に放流がなされて無い川なので魚影は薄いのですが、釣れれば綺麗な準天然魚ばかりなのです。
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早速流してみると水中の浮き玉がグンッと沈み、小顔でスタイル抜群のヤマメさんが釣れてくれました。今日の晩酌が楽しみになる魚体です。もう食べるのは充分ですので、帽子を取って、川の水で手と顔を清め、千曲川竜神さまに拝礼し、本日の恵みに感謝致しました。
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本流の大物釣りも楽しい釣りですが、渓を遡行しながらの釣りは癒されます。竿はしまったのですが、折角なので少し上流のポイントも覗いてみました。

以前に大ヤマメを釣り上げた小さい堰堤も釣れそうな雰囲気満々で健在でしたが、今日は食べるに充分な渓魚を既に授かっておりますので確認だけです。遡上の時期が今から楽しみです。

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渓友達と千曲川イワナ釣り

先週は猛暑の中での2週間連続の引き継ぎと、遠距離の単独引越しの疲れで体調を崩してしまい、ブログも更新出来ずに土日とも寝込んでおりました。全く持って意気地の無い話ですが、上の娘が家に居てくれたので本当に助かりました。

さて今週は釣友がホームリバーに誘ってくれたので、千曲川イワナ釣りに行ってまいりました。2年間ほど西国に行っている間は大きな出水は無かったと思いますが、其れでも渓相が気掛かりでした。当日は夜半から雨が降り、山間部にかけては少し強めに降った様でした。

 

今朝は本流が濁っておりましたので、懐かしの杣添川上流に入りました。小雨が降る中の釣りは久しぶりで赴きが有ります。
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早速に7寸超えの食べ頃サイズが来てくれました。思わず『久しぶり』と挨拶してしまいました。
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測ったように同サイズが釣れて来ます。後で分かった事ですが、お腹には大量のブナ虫が入ってました。
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今頃のイワナが個人的には一番美味しいと思います。
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増水時なので入れ食いを想像してましたが、飽きない程度の釣れ方でした。個人的に千曲川では上限5匹と定めておりますので、残り1匹の枠を残して退渓致しました。久しぶりの山岳渓流なので足が攣って釣りに成らなかったのが本音です。
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おにぎりを食べた後に少し場所を変えてみました。
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竿抜けだろうと思われる荒い瀬の緩衝地帯に餌を打ち込んで行きましたら、久しぶりの大物の手応えが有り、荒瀬の中を何とか寄せてランディングに成功しました。恐らくは遡上途中に一休みしていた個体だと思われます。
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釣友2人も怪我無く無事に釣行を終えることが出来た事と今回も立派な山の恵みを頂いた事を海ノ口湊神社の美都波能女命(みずはのめのみこと)に御礼申し上げた次第です。前にも書きましたが美都波能女命は大八島(日本列島)を代表する水神さまです。
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湊神社の『湊』は『港』に繋がり、縄文海進で海面が今よりずっと海面が高い時代には日本海から船で遡った方々が上陸した場所だと私は想像するのです。そうで無いと『海ノ口』なんて地名は付かないと考えております。日本では湖を『海』と表現しますので自然の巨大ダムが存在していた可能性も有りますね。この小さい古社を参拝する時に何時も太古の光景を想像しております。磐井の乱で追われた八女の大王を封じた安曇族の勇者が日本海から犀川流域に向かった様に海洋民族が上って来たかも知れません。更に上流の川上村には住吉神社が鎮座されておりますので、安曇族とは違う部族が来訪していたかも知れません。因みに住吉族は百済系の帰化人集団とも言われておりますが、住吉大社の御祭神は住吉三神と、お腹に八幡さま(応神天皇)を宿していても御神託の通りに栲衾(たくぶすま)の新羅を攻めた事で三韓征伐を成し得た国家の母とも思える神功皇后です。

すこし脱線しましたが、今回は実に癒しの釣りとなりました。町田の自宅に帰ってから雨に濡れた道具の手入れを行いながら、やはり産湯を使った千曲川の水は肌に合うと感じました。そして久しぶりの千曲川行を実現させてくれた釣友2人に改めて感謝の念を抱いた次第です。

去り行く日

此のブログを始めて『去り行く日』を綴るのは3回目となります。先週お伝えしたとおり、2年ほどお世話に成った松阪の営業所を去る事となりました。お客様をはじめ管理職及び社員の皆様には本当にお世話になりました。直向きに職務に向かう真摯な姿勢は脳裏に確りと残っております。皆様のご恩は忘れません。

濃厚な時間を一緒に過ごした管理職一同と記念撮影致しました。
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松阪は敬愛する本居宣長先生の出生地であり、隣の伊勢には天照大神が鎮座する神宮が有り、一帯は正しく聖地でした。此の2年間はコロナ禍でしたが、地域の皆様の温かい御心に触れる事が出来、貴重な経験となりました。

本居宣長先生です。地元の豪商である小津一族の出身であり、古事記伝を著した空前絶後国学者です。当時読解不可能だった古事記を『係り結び』と言う法則を発見する事により解析に成功した大成者なのです。
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松坂市のシンボルの驛鈴です。元々は律令制で駅馬を利用する時に携行した身分証の役割をした鈴であり、鈴好きな本居宣長先生の縁の品で有り、松坂駅に巨大なモニュメントがございます。
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月曜日から金曜日まで、お客様の引き継ぎをミッチリ行い、管理職による歓送迎会、三重県の所長達による歓送迎会、営業者の歓送迎会を終えてクタクタになりましたが、仲間達の優しい心遣いが身に沁みました。

管理職一同から頂いた松本市に有る『こたき』が製作した糸魚川翡翠の勾玉です。勾玉はお腹の胎児をあらわしているとされており、同じ遺伝子の魂の形を現しております。私は此の勾玉に今後は離れて仕事をしていておりましても『志』は同じであり続ける事を誓った次第です。

『こたき』さんのホームページより
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因みに翡翠は光を通す性質が有ります。
『こたき』さんのホームページより  
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翡翠の硬玉は硬玉と軟玉に分かれており、軟玉は世界で比較的多く産出されますが、硬玉の産出は日本の糸魚川市が圧倒的であります。日本では縄文時代中期の古墳から出土しており、魏志倭人伝にも日本から送られた翡翠の明記がございます。奈良時代になって仏教公伝が行われ、その後の乙巳の変蘇我氏が滅ぶと同時に産出地の秘密も失われてしまいました。乙巳の変から約1300年が経過した昭和初期となって日本の糸魚川市が進出元である事が判明し、平成28年に『国石』に認定された経験がございます。

今回仲間達に高い買い物をさせてしまいました。そして管理職の皆様に心から感謝の念を抱きながら、令和5年6月16午後23時に松坂を後に致しました。次の勤務地は港町横浜ですが、約20年ぶりの帰還となります。

Wikiより

浦島太郎図鍔の考察

今週は木曽に釣りに行く予定でしたが会社の人事異動が発令されて私の転勤が告げられました。釣りどころでは有りません! 来週1週間の引き継ぎ期間を持って松阪の営業所を去る事になり、急な引越し作業となりました。私は頻繁な手入れの為に松阪市の借り上げ社宅に刀剣類を持ち込んでおりましたが、此ればかりは引越し業者に頼むわけにはまいりません。従って今週は車に刀剣類14点や他の美術品を載せて町田市の家に帰ってまいりました。長女に手伝って貰って車から家に搬入し、改めて然るべく場所に其々を仕舞う時にフッと一つの鍔に目が行きました。私が父から受け継いだ大脇差の鍔です。一部朽ち込みも有る鉄鍔ですが、面白い意匠なのでご紹介致します。
 
浦島太郎図四つ木瓜鍔です。
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此方は表側となります。波の煌めく様を金の点象嵌で表現し、浦島太郎さんの顔を肉彫して銀の色絵で表しております。老人になってしまっても何故か楽しげな浦島太郎さんの顔は拡大すると眼球まで確り表現された凝った造りです。上部の中心より左方には相輪に金の色絵を施した塔の様なものが潮流の影に見えます。

相輪とは此れです。Wikiより
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鍔の裏です。海の中なので珊瑚が彫られております。これだけで海の中と思えるのですから凄い表現技法ですね!
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此の鍔が装着されていた脇差は此方です。ゴリっとしており、匂い口が締って良く切れそうな感覚を受けます。
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此の脇差の外装(拵え)はボロボロでした。そんな中で鍔に施されている図柄が当時とても気になったのです。20年以上前の話ですが、鍔の意匠である浦島太郎について色々調べた事が有りました。よくよく調べてみると諸説は有りますが、我々が知っている御伽話とはまるで違う内容だったのです。其処で其の
内容について少し触れさせて頂きます。

浦島太郎  Wikiより
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まず浦島太郎は水江之浦嶋児(みずのえのうらのしまこ)と言います。水江とは丹後市辺りに存在した入江だったと言われております。浦島太郎は亀を助けましたが、亀は亀甲紋を神紋とする出雲の神様に(出雲大神宮 京都府亀岡市)仕える巫女さんなのです。其の巫女さんが悪い奴らに乱暴され操を奪われてしまいました。嶋児(浦島太郎)は悪い奴らを追い払いました。操を奪われた巫女は二度と巫女には戻れません。そこで嶋児(浦島太郎)は此の巫女を哀れに思い、ならばワシの妻となれとなだめて結婚したのです。さっきまで乱暴されていた女性に自分の奥さんになれと言い放ったのですから凄い話しです。

京都にある宇良神社です。Wikiより 
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  日本書紀にも登場する水江之浦嶋児は西暦825年に淳和天皇(第53代の天皇)により筒川大明神の神号を送られました。其の時の勅使は何と有名な小野篁です。水江之浦嶋児(浦島太郎)は此方の神社に筒川大明神として祀られております。

出雲族の村に先に戻った巫女の話を聞いた村の人々は多いに嶋児を歓待しました。でも村の人々は何故か女性ばかりだったのです。実は此の時に出雲族の勇者達は巫女を襲った連中の村に攻め入って村の人々を皆殺しにしていたのです。暫く経って嶋児は一旦家に帰ります。そこで嶋児が見たものは皆殺しにされた自分の村の惨状だったのです.... 。

嶋児に玉手箱を開けるなと言ったのは、此の秘密を漏らすなと言う事だったかどうかまでは分かりませんが、伝承と全く違う内容に驚くばかりでした。此の話は色々な歴史家の先生方により、様々な解釈が成されておりますが、私の師匠にあたる方は此の様に解釈されておりました。  

色々な御伽話にも裏には色々な真実が有る様に、会社の人事にも人知れず色々な意味が有るのだろうと考えました。ただ命を賭して多人数の暴漢から婦女子を救い、ましてや成り行きとはいえ目の前で乱暴された女性を己の妻とし、嫁を貰った喜びを家に伝えようとしたら、嫁の一族に村ごと殲滅させらていた不憫な『義』の漢に対し、後の天皇が神号を授けて神として祀った事を思いますと、私も今後は如何なる事になろうと襟を正して進もうと慌ただしい最中に改めて思った次第です。

木曽釣行中止と小さな村社の考察

今週は満を持しての木曽釣行の筈だったのですが、台風接近に伴う線状降水帯の影響で取り止めとなりました。仲間と常宿の山水さんに連絡して行けない旨を伝えました。コレばかりはどうする事も出来ません。

本日の朝は大阪の釣友から知らせが入り、我が家のある東京都町田市の八王子バイパスにかかる橋梁の近くが崩れたとの報道を知りました。我が家から歩いて10分のところです。近くには鎌倉古道も存在する古い確りした峠道です。今回の大雨は、げにも恐ろしき大雨でした。

そんな訳で今回は何年か前の春に考察した小さい木曽に有る神社の由来についてご案内してみます。此の村社は木曽の名川である正沢川に掛かる七笑橋から旅館山水に向かう村道の左手山側に鎮座しております。山水のご家族の方々に名前を聞いてみると『権現さん』と言われているとの事でした。権現とは神仏習合の名残りで有り、仏が神の形を借りて世の中に実現している状況を示します。蔵王権現、飯綱権現、東照大権現など多くの呼称がありますね。ところが此方の神社の由来は現実味に溢れ、往時より行き交う人々が多かった木曽路独特で有り、そんな地域の方々の優しさが現れた社となります。

此方が其の安藤帯刀神社です。
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古くはなっておりますが、檜皮葺の立派な社です。地域の皆様から敬われている事が分かります。檜皮葺とは檜の樹皮で屋根を葺いたものの事です。
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立派な神額が有ります。
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鳥居は此方の社に向かって左側の正沢川の方角(北向き)の道路沿いに有り、なお社自体は国道側(西向き)に向いております。神社の向いている方角は多くが南向きなのですが、一部東に向くものも存在し、此の様な神社は古い太陽神をお祀りしております。対して西に向くものも少数ですが存在し、其の多くは三韓征伐で有名な仲哀天皇の后である神功皇后を祀る神社(常に朝鮮の方角に睨みを効かせている)と海の神様(住吉三大神)です。従って社や鳥居の向きからは考察が困難でした。

社名の安藤帯刀とは歴史好きなら知らない人が居ない程の武人です。本名は安藤直次と言い、従五位帯刀先生の官名を持ち、戦国時代から江戸初期に活躍した紀伊国田辺藩初代藩主です。その後は老中も勤めておりました。小牧.長久手の戦いでは池田恒興と狂猛な森長可を打ち取った武勇の持ち主です。森長可は私の生まれ故郷である更級人の怨敵であり、其の長可を討ち取った安藤直次の名前は其の高潔な人柄と合わせて確りと私の脳裏に焼き付いていたのです。此の事が原因で此の小さい社に興味を持ちました。森長可が何故に更級人の恨みを買ったかは長くなるので省きます。

神社の近くを流れる正沢川です。かつては渓魚の宝庫でした。阿寺渓谷と共に木曽を代表する美渓です。
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其処でお馬鹿な私は木曽福島町役場に連絡し、此の小さい社の由来を問い合わせてみると『木曽福島町史』に掲載されているとの事でした。また安藤直次とは無関係であるとの事でした。其処で木曽福島町史を見てみると次の様な内容が記載されておりました。

安藤直次公   Wikiより
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時期は慶長の頃の話、この辺りは其の頃から根曾(現在は木曽町新開根曽)と言われていたみたいです。1人の武人が命からがら落ちて来ました。その武人は当時人家も少なかった根曾に苦労して辿り着いたとの事。此の武士は追われる身だったので馬のクツ?を逆に履かせて、あたかも逆に馬を進めている足跡を作って逃れて来たとの事です。(クツとは蹄鉄の事なのかは定かでは有りません) 。不憫に思った地域の方は家の納屋に此の武人を隠れさせ、上に草を被せて隠したと有ります。其処に追っ手が乱入し納屋の隅々まで槍で突き伏せていき、やがては隠れた武人も見つかってしまって突き殺されてしまったと有ります。追っ手に知らせたのは隣村の人で有り、その後に祟りを恐れて墓を建立したと有ります。根曾では殺された武人を不憫に思い根曾大権現としてお祀りしましたが、のちになって其の武士が紀州田辺の安藤帯刀と言う武士だと言う事が分かり、安藤帯刀神社として祀ったと町史には有りました。

甲骨な三河武士を代表的な存在である安藤直次は家康公と頼宜公と二代を通して徳川に仕え寛永12年(1635年)に81歳で天寿を全うしておりますので恐らくは違うと思います。帯刀とは帯刀先生(たてわきせんじょう)と言う役職の名前です。恐らく当時は今ほど情報が出回っておりませんでした。ましては木曽の奥の小さい集落なら尚の事です。

しかし自分達集落に落ち延びて命運尽きた武人に対して弔いの意味としても確り御祀りした事は当時から交通の要所だった木曽地方の方々の心優しい気持ちの現れですね。

私は色々なところに釣りに出掛けております。特に東京に居た頃は木曽川千曲川を共にホームグラウンドにしておりました。千曲川は釣り人達のマナーよ良さは特筆されますが、地域住民の方々は少々残念な場面が多く有ります(特に川上村)。逆に木曽川は釣り人のマナーは極めて悪いのですが、地域の皆様は釣り人にとても親切です。木曽で釣果に惠まれずポケっと日向ぼっこしている時に何回も地域の方々に釣れそうな場所を教えて貰いました。後日缶ビールを持ってお礼に行くとお昼ご飯をご馳走になった事も有ります。そんな愛する木曽地方の皆様か大事にする神社でしたら考察なんて関係なく、それ以後は神社の前を通ると必ず黙礼している次第です。