みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

更級への帰郷2 老舗の鰻屋と鎌倉時代の名刀

長野県でも新潟県に近いところ位置する場所に飯山市と言う場所がございます。本日は其の飯山市にある有名な鰻屋さんに鰻を食べに行く事が、朝ごはん後の御前会議で決定致しました。飯山市はかつて上杉謙信公が信濃への足掛かりとした交通の要所であり飯山城が築かれていた城下町です。謙信公にとって此処を押さえることは軍事戦略上とても重要でした。此処から日本海側に向かうと謙信公の居城であった春日山城がごさいます。鰻の後は埴科郡坂城町にある鉄の展示館で『鎌倉時代の日本刀展』が催されているとの話なので皆を降ろして訪問する予定となりました。久しぶりに6人と言う大人数で朝食をとって車2台で出陣致しました。

少し早く出過ぎたので鰻屋の近くに有る『高橋まゆみ人形館』に寄りました。高橋さんは長野県出身の人形師で現在は風光明媚な飯山市に住んでおられます。実は私の母親が大のファンなのです。

館内は撮影禁止でしたのでホームページに出ている写真です。高橋さんの人形は老人の表情に特徴があって魅力がございます。カスリ半纏にモンペ姿のおばあちゃんは、私にとって当たり前に見た光景ですが、この姿と表情に強く引き込まれてしまいます。微笑ましい猫ちゃんを見つめる優しいおばあちゃんの御姿です。

人形館のカフェでチョット一休みです。

いよいよ鰻の本多さんにまいりました。まだ11時なのに満員御礼です。地元の車は勿論ですが、直ぐ横の新潟ナンバーも多く見受けられました。

何故か火縄中が飾られております。恐らくは家に伝わる品なのでしょう。上のモノは士筒(さむらいづつ)と言われる大口径の銃です。流石城下町ですね。

連休中は肝焼きは無くて肝煮らしいですが味は生姜が効いて絶品です。

お目当ての鰻重がまいりました。

甘過ぎない味付けで此方も絶品で脱帽です。箸休めの胡瓜の漬物も美味かったです。大満足でした!

さて満腹後の眠気を妹に貰ったコーヒーで誤魔化して坂城町に向かいました。坂城町武田信玄公を2回も負かした村上義清公の本拠地です。場所的には実家の更級を挟んで真逆になります。

『鉄の展示館』に到着しました。

此処は信濃の誇る人間国宝の宮入昭平(行平)さんの作刀場横に作られた建物です。

 
此れは大和伝手掻派の開祖である手掻包永の見事な刀です。僧兵が使った豪壮な造り込みに直刃が美しい太刀姿です。大和手掻派は東大寺の輾磑門(てんがいもん)の横に住んでいた事からついた名と伝わります。地鉄が澄んで綺麗でした。

お次は鎌倉後期の備前長船鍛冶で則光(のりみつ)の太刀です。専門用語ですが備前伝の特徴である映りが顕著に現れておりました。コレもまた板目に杢目が絡んだ絶妙な地鉄です。備前の丁子と映りは何故こんなにマッチングするんでしょうか。フンワリ何とも表現の仕様が有りません。

郷とお化けは見た事ないと言われた郷則重の太刀です。さすがに相州伝上工だと思わせるような変化に富んだ素晴らしい地鉄です。潤いのある地徹の中で独特の松皮肌が出てました!鎌倉時代末期の作刀と説明書きにござました。

もう言葉が有りません! 備前の一文字良房の太刀です。しばらく此の太刀の前から動けませんでした。この世のモノでは無いような感じで語る言葉すら見つかりません!

そして粟田口藤四郎吉光です。兎に角とんでもありません! 刀剣史上最高の地鉄と言われているのが分かります。

拡大すると小杢目とか梨地と言われている理由が分かる地鉄です。梨を切った時に梨から果汁が滲み出るように、此の刀の地鉄からも滲み出て来そうです。

豊後国行平です。古今伝授の太刀と同作者と言う事になります。大分研ぎ減ってはおりますが、此の黄金比で構成された反りの優美さはどうでしょう!若い美人では無く歳を重ねたベッピンさんとでも申しましょうか。

正清の脇差が有りました。こちらは江戸中期頃の作ですね。地鉄が良く練られて強そうな印象で身幅と重ねが厚い薩摩刀らしい一振です。

他にも沢山展示されており、思わず時間を忘れる一時を過ごさせて頂きました。美味しい物を頂き、この上無い美しい太刀を拝見し、大満足な一日となりました。

最後に悠久の流れである千曲川を見て家路につきました。

更級への帰郷 父の残した品々

連休の後半に帰郷する事になりました。信州の春はとても美しく、水彩絵の具のような淡く柔らかい色に染まる山々が迎えてくれます。更級を流れる悠久の千曲川には河原に菜の花を小さくした様な西洋ヤマガラシが黄色い花を咲かせており、5月の爽やかな風に其の花を揺らして誇らしげです。新緑と山桜に煙る山の向こうは雪を抱いた神山がそびえており幻想的な光景なのです。

淡い新緑と山桜でパステルカラーに成っている山の奥には雪を抱いた北アルプスが見えます。  長野県公式観光サイトより

家の刀の手入れをしました。

私の父は67歳でこの世を去りました。観世流能楽師範で有った父は毎日お弟子さん達と稽古に勤しみ、稽古が終わるとお茶を飲みながら楽しげに懇談する姿が思い起こされます。郷土歴史家の側面を持ち、食事の時は歴史の話を延々と話しておりましたので子供の私にとっては少し苦痛(笑)だった事も有ります。頷きながらお味噌汁を飲むとむせるのです(笑)。

祖父から伝わった刀剣などの武具についても話が尽きる事は無く、此方も食事の時の話の一つでした。覚えているのは寒い日にお味噌汁から湯気が上り、その湯気をよく見ると小さい粒々が沢山ある事に気が付き、その事を父に話すと『よく気が付いたな、うちの刀をよく見ると、同じ様に刃縁に細かい粒々が沢山付いているから後で見てごらん』と言いました。しかしその後に父親に鞘から抜いて貰った刀をよく観察しましたが、サッパリ分かりませんでした。今思うと父親は残念だったろうにと思う懐かしい話です。 

白い部分は白くなる様に研磨師が研いだ色であり、その中のグレーの部分が刃文です。此の刀は沸出来と言うタイプの刀で刃文と上の部分との間に小さい粒々がモワ〜と付いております。この小さい粒を沸(にえ)と言いますが、恐らくは此の事を言いたかったと思われます(指で拡大出来ます)。父親が今存命であれば色々話が弾んだと思います。

また父親は観世流能楽師なので家に伝わる能面や狂言面を一部を紹介します。基本的に日本でも西洋でも面を付けて演じる役は人ならぬものです。面を付けると言う事は能役者にとって自らを役に変貌させる呪の様な要素があると聞きました。面をつけて顔をやや上に向けることを『テラス』と表現し、笑っているような明るい雰囲気が出ます。また逆に顔を少し伏せることを『クモラス』と言って泣いている様な悲しい雰囲気を出します。

一番基本的な小面(こおもて)です。『小』は可愛いと言う意味で若い可憐な娘の面です。我が家に伝わる小面は何となく明るい雰囲気の面なのです。 

裏です。面打師のノミ跡が残り、拭き漆で仕上げております。

狂言面と良い、恵比寿さんを表した面です。顎髭を打ち出した珍しい面なのです。

裏です。先程の小面の裏と全く処理が違います。

コチラは大分古い時代の面です。最初の小面とは随分雰囲気が異なりますね!

裏です。他にもたくさん有りますが、恥ずかしながら少し怖い面もあるので写真はやめておきます。小鼓(こづつみ)などは次の機会にご案内致します。

謡本(うたいほん)も膨大な量です。

床の間に母がお気に入りの美人画の掛け軸が飾られておりました。

やはり実家は落ち着きます。本日は町田の家から娘達も来て、妹と義弟が庭にバーベキューセットを広げて家族揃った焼肉パーティーでした。天気も良くて久しぶりに満喫した次第です。


趣味の萩焼

趣味が多過ぎるのも困ったものですが、家族の影響を強く受けた趣味は50歳を2つ過ぎた今でも続いております。まず祖父が刀剣商でしたので様々な品が家に存在し多分過ぎる程に影響を受けました。また祖父は大の川魚好きであり、私が夏の夕方に毛鉤で魚を釣り上げて帰ると本当に大喜びでした。父は能楽師であると共に大の歴史好きでしたので大概の事は父から学ばせて貰いました。祖母と母は器に深い造詣を持ち、お客様が来訪した日など特別な日の食卓には鮮やかな蒔絵が施された漆器やお気に入りの陶磁器でお客様をもてなしておりました。季節の花を大きな水盆に飾り、其の場に合った軸を掛ける時に父と楽しそうに話していた姿が思い起こされます。そんな関係で私も其れ等の分野に多分に影響を受けているのではないかと勝手に考えております。なかでも陶磁器への興味は社会人になってから岐阜県多治見市に実家を持つ同僚の家に遊びに行ったのですが、同僚のお父さんが生業としている絵付け師の仕事を通して焼き物の歴史を聞いてからでした。刀は鉄と火と水を使い、焼き物は土や陶石と火と水を使いますが、どちらも自然の力を作者が引き出して製作されるところに強い魅力を感じます。

今回は私が気に入って買い付けた萩焼を2点ほど紹介しようと思っておりますが、その前に萩焼の歴史をご案内致します。秀吉によって朝鮮への出兵が行われ、多くの大名と共に朝鮮に渡った毛利輝元公が最初の文禄慶長の役から帰国する時に朝鮮の陶工である李勺光と言う方を自領に招き、少し後に弟の李敬も招きました。その後の2人は関ヶ原の戦いに敗れて領土を削減された輝元公と共に安芸から長州の萩へ移り、萩の松本村に藩の御用窯を開いたのが萩焼の始まりと言われております。

近所にいた茶道に通じた仲間に『萩焼の抹茶椀はテーブルの上に置いても其れなりに良いけど、畳の上に置いて濃茶を注いだ時の色の冴えを想像しながら見たら良いよ』と教えて貰いました。そして萩焼の面白いところは『萩の七化け』と言われ、使うほどに貫入と言われる細かいヒビから茶渋が入り器の景色が変化していくとも教えてくれました。実に日本人らしい物を大事にする話だなと感じた次第です。萩焼には色々な種類が有りますが、私の好きな物は『琵琶色』と言われている肌です。

十五代坂倉親兵衛作 萩茶碗

高台です。

光を落とすと落ち着いた雰囲気が出ます。

坂倉家は毛利輝元が連れて帰った李兄弟の兄方の家系であり、6代目から『坂倉』を名乗ってます。

こちらが共箱になります。

守繁栄徹作 萩蕎麦茶碗  蕎麦茶碗とは蕎麦を食べる茶碗では無く、半島から伝わった元々の茶碗の色が蕎麦の色に似ていた事からの呼称です。

此の琵琶色に惚れました。

高台です。

栄徹氏の銘です。

仕覆(しふく)を被せました。

共箱です。

二つ目の茶碗の作者は1967年に開窯した萩焼窯元 蓮光山の守繁栄徹氏の作陶です。買い付けてから時が経過し、FBで栄徹氏のお子様である守繁徹氏(現当主さん)が大学の先輩にあたる方だと知りました。そして少しの時を経て刀友の一人が山口県宇部支店に転勤になったのです。地図で宇部市を見てみますと宇部市萩市は近いでは有りませんか! 私の見た地図では5mmくらいでした(笑)。向こうも単身赴任なので気軽に連絡を取り『萩市の守繁先輩の窯元まで行ってくれ』と住所を送ったのです。地図では5mmでしたが実際には1時間半かかる道のりを刀友は快く向かってくれました。ちょうど萩焼の湯呑みが欲しくて探しておりましたのでタイミングピッタリだったのです(刀友よゴメンなさい)。お店に到着した刀友から色々な作品の写メが送られて来ました。そして最終的に私が選んだのは此の湯呑みです。

守繁徹先輩作の湯呑みです。

この土色が堪りません。

緑茶を入れてみました!

共箱です。

窯元に着いた刀友君を案内してくれたのは徹先輩の息子さんであり、息子さんも本学を卒業されたとの事でした。後日私宛に送られて来た品の中には購入した湯呑みの他に本学の学友会で製作されたと思われる湯呑みも入っておりました。お礼の電話をしようとしたら守繁先輩から逆に連絡を貰い、窯焼きで手が離せなかった為に当日は不在であった旨をお伝え頂きました。守繁先輩に心から感謝の言葉をお伝えし電話を切ったのですが、何とも言えない温かい気分に成れました。会話の中で守繁先輩は私が後輩にも関わらず『まだまだ精進している身なので....』と仰られた事が強く印象に残っております。

友人の一刀 大隅守広光

今週は友人が所有する幕末期に打たれた短刀をご紹介します。合戦などで甲冑や当世具足を纏って戦うのでは無く、素肌で切り合う事を想定されて刀が打たれた時代の短刀です。ご存知の通り応仁の乱以降約150余年にも及ぶ長い動乱の世が終焉し元和偃武となりました。平和な時代になると刀剣類も戦う為の刀剣から一転し煌びやかさを競うような刃文を焼いた物が出現し、刀剣類は美術品としての様相を呈して行きました。ところが安永年間になると出羽国出身の水心子正秀という刀鍛冶が煌びやかな刀剣類から鎌倉時代南北朝時代の実用に即した刀の復活を唱えたのです。正秀は太平の世の中で失伝した各地の伝法を継承する刀鍛冶を訪ねて技法を習得し、其の技法を書物に著して広く弟子に広めました。言葉で表現すると単純ですが、此れは門外不出の秘伝だらけの刀剣界では考えられない偉業なのです。私の愛読書の一つである『江戸の日本刀』を著した伊藤三平氏は正秀を『江戸の産業ルネサンスを担った一人』と表現されております。

伊藤三平氏の『江戸の日本刀)

今回ご案内する物は短刀です。作者は大隅守広光と言います。広光は大和郡山藩士でありますので正真正銘の士分持つ刀匠です。本名を川井幸七と言います。土方歳三の愛刀を打ち上げた会津十一代和泉守兼定の門人として名を馳せ、慶応年間に大隅守を受領しました。新撰組近藤勇が使用したり、薩摩藩士などの維新志士から作刀依頼を受けた文献が残る刀匠です。

全景

地鉄は板目に杢目が混じり肌がハッキリ確認出来ます。平地には地沸がビッシリ付き地景入り、刃縁に小沸が付いた直刃には小互の目が混じり葉が働きます。専門用語だらけでスミマセン!
 
平地には綺麗な杢目が多く出現してます。板目とは製材した板に現れる肌目に似ている事から板目と表現され、杢目は板に出る節の丸い目に似ている事から杢目と言われます。欅の板には更に沢山の杢目表現が有りますので興味のある方は是非調べてみて下さい。

鋒です


素銅に金着せハバキです。祐乗と言う種類のヤスリが掛けられております。

中心は丁寧な仕上げです。錆の状態も新々刀らしい錆が付き、鑢目は大筋違と言う種類の鑢が掛けられております。銘切りも巧みな鑽裁きで流暢です。銘切りにハミ出る箇所が見受けられず、広光の実直さが垣間見れる銘だと感じます。恐らくは自分の打ち上げた刀で世の中を変える気概を込めて銘切りしたのでしょう。

龍図で統一さられた拵えも見事です。親粒の大きい鮫を着せ、卯の花色の柄糸で巻き、縁頭と目貫と鍔と小柄を龍の揃い金具で統一してあります。派手に成りすぎない為に目貫を烏銅(カラスの濡れ羽色)を使うところに職人の美意識を感じます。

差表の鍔の縁に施されている龍図。龍は昇り龍と降り龍が存在し、自分の願いを天に届けるのが昇り龍、天の意志を自分に伝えてくれるのが降り龍と言われております。

縁金物に施されている龍図

縁の龍と鍔の竜の重なっている所作

短い短刀の柄にも関わらず鮫皮の親粒を2つも菱に入れ込む妙技に柄巻しの技量を垣間見れます。

小柄には剣巻き龍です。剣巻き龍は不動明王を表します。

目立ちませんが鞘の塗りは『闇蒔絵』と言われている技法が用いられております。金粉で目立つ蒔絵にはせずに黒く浮き上がらせる特別な蒔絵技法であり日本人らしい控えめな美しさですね。

1864年池田屋事件を思うと150年以上前に京都で打たれた短刀です。注文主から巡り巡って我が友人の手に落ち着いております。激動の時代を持ち主と共に歩んで来た一刀だと思うと特別な思いで鑑賞出来ました。話は違いますが広光を所有している友人には此の春に待望のお子さんを授かりました。恐らくは広光が守刀となってお子さんを守護してくれると思います。

注文打ちの準備スタート

まだ先の事になると思いますが、考え方に好感が持てる若い刀匠に一腰の刀を注文しようと考えております。刀には其の時代により呼称が存在し、上古刀(直刀)、古刀、新刀、新々刀、現代刀と区別されております。一般に上古刀とは古墳から出土する直刀の事を言います。古刀は平安時代中期から文禄年間までノ期間に作刀された物を言い、新刀は概ね関ヶ原が終わった慶長元年から安永年間の終わりまでとなります。新々刀は天明元年から廃刀令までの間に打ち上げられた刀です。そして廃刀令以降は一律に現代刀と呼ばれております。つまり私が依頼しようとしている刀は現代刀に部類されます。 
 
安卓貞宗写し 源貞弘 友人の所蔵する現代刀です。
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歴代の所有者が大事にした古い刀とは違い、私の代から始まる刀を所持したいと思っていたのです。因みに私の妹に其の事を話したら『お兄ちゃん、ちょっと考えてみて....そんな事より....云々....』と嗜められてしまいました。年の離れている妹の話は極めて筋が通り、内容も反論の余地も無いくらいに最もだと肯定出来るモノではありますが、20年来温めているお兄ちゃんの決意は変わりません! そして白鞘の仕上げでは無く、今回は拵え(外装)付きで作ろうと思っております。白鞘のままで上研磨が施された刀身だと拵えを改めて造る時には、寸法を合わせる為に新しい鞘に何度も何度も刀身を出し入れす為、どんな名人が行っても刀身にヒケ傷(すり傷)が付き易い難点がございます。反面今回の様な新作刀では仕上げ研ぎの前に拵えを造るのでヒケ傷が着いても後に仕上げ研ぎを行うので刀身は研ぎ師が仕上げたままの美しい状態となるのです。刀剣研磨の工程を軽く説明すると、まず下地研ぎとして金剛砥、備水砥で形を整えます。そして改正砥、中名倉砥、細名倉砥、内曇刃砥、内曇地砥を使います。此の時点で拵え製作などの工程を入れます。その後に仕上げ研ぎとして刃艶、地艶、拭いの工程を経て、刃取りと鎬地の磨きを終えて最後に鋒のナルメを行います。とてつもない工程になるのはご想像の通りですが、研磨料金は一寸で8000円から15000円程ですので2尺3寸の刀だと20万から35万くらいの費用が必要です。『高い』と感じられる方が大半だと思いますが、実際に研ぎ師の作業工程を見ていくと、そんな考えは吹っ飛んでしまう程に見事な業前です。

刃物が世の中に出現してから刃物を研ぐ事は行われておりますね。
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糸魚川翡翠(硬玉)
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今回の話と関係ありませんが日本人の研磨技術は世界最高です。翡翠の硬度は鉄よりも上で水晶よりも下ですが、古墳時代の遺跡から出土する翡翠の勾玉はどの様に研磨したのだろうと思わず考えてしまいます。


話を戻しますが、刀の拵えを造る前に絶対に決めなければならないのが『縁』と呼ばれている金具なのです。此の金具で鍔の切羽台が決まり、柄の太さや鞘の太さまで決まってしまう大事な金具なのです。だいぶ前に此の事を知らないで大失敗した事がございます。

写真は柄巻師が柄に糸を巻いている場面ですが、柄の右端にあるのが縁金物です。
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作刀と合わせて製作を依頼しようと思う外装は『番差し』と言われており、武家が登城する時や正式な場所に赴く時に使われた外装なのです。ドレスコード的には最も高い格式の外装と成ります。シンプルですが格調高い外装であり憧れておりました。鍔は赤銅地で碁石形、大刀には小柄と笄が付属し、脇差には小柄のみを付けます。目貫は金無垢などの豪華な物か家紋の目貫を用い、柄頭は水牛の角に黒漆、柄巻は頭に筋違いに掛けて巻き、縁は磨地か赤銅魚子地に家紋を入れます。鞘は黒呂色塗と言い、黒く濡れたような美しい光沢の鞘となり、大刀の鐺はキリ(横一文字)になり、脇差の鐺は丸鐺に仕上げます。専門用語だらけで申し訳ありません。

コレは大小の写真です。御用以外で普段に外出する時などは意匠を凝らした違う拵えを別に誂えていたと言われております。
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其の様な訳で今回は持株会を一部売却した資金で拵え(刀の外装)の金具全般を大阪天王寺に住む刀身彫刻の先生に頼もうかと思っております。具体的に言うと鍔、縁、頭(コレだけ水牛の角に黒漆)、笄、小柄になります。貧乏サラリーマンに取って刀と拵えは完成まで数年掛かりのロングプロジェクトとなりますが、始めなければ何も始まらないので推進して行くつもりです。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 最終回

義仲公のシリーズは今回が最後となります。旭将軍源義仲公は近江は粟津ヶ原で今井兼平と共に最後を迎えてしまいました。しかし義仲公の嫡子である清水冠者源義高が頼朝公に預けっぱなしになっております。また最後の地である近江粟津ヶ原には義仲公供養の塚が出来たと伝わります。そして其処には巴御前と思しき女性が現れて頼朝公の菩提を弔っておりました。時代が数百年過ぎ行く中で義仲公の塚は荒廃と拡張を繰り返し『義仲寺』として現代まで伝わっております(ぎちゅうじと読みます)。

※ 義仲公の嫡子義高と大姫
義仲公の嫡子である源義高は行家などの叔父達と引き換えに頼朝公の元へ送られておりました。義仲公は『叔父達は自分を頼って来た者であり、例え誰の命であろうが差し出す訳にはいかない』として嫡子を頼朝公の元に送ったのです。義高は頼朝公と政子の最初の子供である大姫と仲睦まじく過ごしており、人質ではありますが実質的には許嫁として生活していたのです。因みに此の時は義高は11歳で現在で言う小学6年生、大姫が6歳で小学1年生でした。

愛らしい小さい頃の大姫 不憫にも悲劇のプリンセスとなります。 鎌倉殿の13人より
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※ 義高逃亡
義仲公が粟津で没した事により鎌倉に義高の居場所は1ミリも無くなっておりました。簡単に言うと鎌倉方にとって人質の意味が無くなったと言う事になります。事の次第は大姫が義高が父の命によって討ち取られようとしている事を知ってしまいます。此れは大姫の侍女が義仲公が討ち取られた事を小耳に挟んだ事から始まった事だと言われております。武家に仕える女性なら嫡子義高の運命を予想する事は難しい事では有りませんでした。そして其の事は次女から大姫の知るところと成ったのです。

『どうしよう、このままだは義高さまが殺されてじう』と考えた心優しい大姫は義高をなんとか逃そうとしたのです。そして信濃から義高に付き従っていた海野幸氏を身代わりにし、義高は女装し大姫の次女達と共に館を出ました。ご想像下さい、小学校6年生の義高は父の死と自分が殺される事実を一緒に知ったのです!

館を出る事に成功した義高は大姫の手配した馬に乗って逃げました。しかし夜になって屋敷内に義高が居ない事が発覚してしまいました。其の事を知った頼朝公は烈火の如く怒り、御家人堀親家に命じて追手を差し向けました。

執拗な追手の探索のなか、とうとう義高は武蔵國の入間河原に潜んでいるところを発見され、堀親家配下の藤内光澄によって無惨にも打ち取られてしまったのです。木曽太郎源義高は無念にも此処に11年の短い一生を閉じたのです(合掌)。因みに鎌倉から入間市までの距離は約91km有り、当時の馬が休みを挟んで進む距離は1日に約50km弱です。義高は縁者の居ない長い道のりを進み、必死の思いで潜伏していたところを発見され、最強鎌倉武士の容赦の無い斬撃により敢えなく討ち取られたのです。今で言うと小学校6年生の少年なので恐らくは膂力に勝る敵の凶刃に成す術も無かったのだろうと考えると私は胸が締め付けられます。剛勇の誉高い義仲公の嫡子として、また兼平や兼光の様な武の達人達から手ほどきを受けた義高なので鎌倉武士に対しせめて一矢報いたと考えたいと思います。

義高のお墓は鎌倉の常楽寺にございます。元服を済ませたとは言え、今で言う小学6年生で殺された源義高は時代の生贄になった若き木曽武者でした(合掌)。
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今回の話とは関係有りませんが、義仲公亡き後の残党討伐には頼朝公の乳母の息子である比企能員が木曽に送られております。頼朝公は自分の事も有るので後の憂いをとにかく一掃した事になります。昔から憤りを禁じ得ない義高の死に対し、冷静に時系列的で見た場合ですが、義仲公が没してから3ヶ月ほと経過してから義高が殺された事になるのです。もしかしたら頼朝公は義高に対しては何か違う道を考えていた可能性も有ります。きっと大姫の事を思って僧にでもしようかと考えていたかも知れません。もし仮にそうだとしたら、そんな悩みの中で義高が逃亡した事に成り『お前の為に此処まで考えているのになんじゃ〜』となったのではないか?と推察致しますが真相はわかりません。

鎌倉殿の13人では此の方が義高役です。鎌倉殿の13人より
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義高の死を知った大姫は生きる気力が無くなってしまい床に臥してしまいました。食べ物を一切口にしない大姫に頼朝公も政子も困り果てました。そして始めての子である大姫が廃人同様の状態になった事で政子は狂ったのです。それも尋常の狂い方では有りません。そして行き場の無い怒りは在らぬ方向へ向かいました。なんと大姫がこんな風になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかった為だと夫である頼朝公に強く迫ったのです。頼朝公はなんとか慰めようと致しましたが政子には全く通じません。そして頼朝公は此のままだと大姫と同じ様に妻の政子まで狂ってしまうと判断したかどうかは分かりませんが暴挙に出たのです。なんと自分の命令によって義高を討ち取った藤内光澄の首を刎ねてしまい、挙句に梟首にしたのです。梟首とは生首を木の枝に髪の毛を縛って吊るして鳥などに食べさせる事です。義高を殺せと命令を出したのは頼朝公であり、命令を受け取った御家人堀親家が配下を動かして行った公式な御役目なのに何故に罰を受けなければならないのか意味不明です。ハッキリいって此の時の2人は今のプーチンと同じくらいキチガイです。後に政子は北条に不利になる様な動きをした息子の二代将軍源頼家を結果的に死に追いやり、げにも恐ろしき日本三大悪女の一人に数えられております。また頼朝公の落馬による死に様に対しても、頼朝公ほどの強運の持ち主が今のポニーに毛が生えた位の大きさしか無かった当時の馬から落ちたくらいで死ぬ筈もなく、私の考えは恐らくは暗殺だったと考えております(注1)。


大河ドラマ草燃えるでの政子役は岩下志麻さんでした。ゾクっと来る程に美しいお姿でした。其れも『ゾクっと』度は間違いなく歴代No. 1です。
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息子の頼家が乳母の出自である比企氏を余りにも重用した為に立場が危うくなる事を恐れた北条氏によって比企氏は滅ぼされました。其の事で頼家の立場は危うくなったのです。NHKアーカイブスより

話を戻します! 無論ですが当時7歳の大姫の心は藤内光澄の首を刎ねたところで光澄なんて知りませんし変わりません。大姫はその後十余年を経ても義高への思いに囚われ、床に伏す日々が続きました。来る日も来る日も義高の追善供養を行い、日々読経を行っていたと伝わります。

当時の後白河院は頼朝公との関係修復の為に摂政である近衛基通に頼朝公の娘を嫁がせる意向を示しておりました。近衛家には頼朝公の乳母である比企尼の外孫の惟宗忠久がおり、此の惟宗忠久(注2)を介して働きかけて来たのですが、頼朝公は此れを拒んだと伝わります。そして頼朝公は大姫を確執のない後鳥羽天皇の妃にするべく莫大な費用を費やして様々な工作を行ないました。しかし大姫の中の義高像は薄れるどころか益々濃くなって行きました。そして病弱な大姫は病から回復することなく建久8年(1197年)7月14日に死んでしまったのです。全くなんて不憫な女の子でしょうか! 私は此の史実に対し、あの世において義高と大姫は幸せに暮らしていたと何時も思う様にしております。



※ 義仲寺(ぎちゅうじ)について
義仲公が没した地において、巴御前墓所近くに草庵を結んで『我は名も無き女性』と周囲に語り、日々義仲公の供養してい事が始まりであると伝わります。

義仲寺
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義仲公の墓
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松尾芭蕉の墓
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既に鎌倉時代において此のお寺は義仲寺と呼ばれたということが文献に残っております。その後は戦国時代に荒廃してしまいましたが、天文22年に近江国守護である六角義賢によって再興された経緯があります。

六角義賢さん、心から御礼申し上げます      Wikiより
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江戸時代には再び荒廃していたところを浄土宗の僧である松寿が村人に再建を呼びかけ、地元の有志の尽力により塚を立派な墓に作り変え、一庵も建てるなどして再建させたのです。元禄5年には名前を改めて義仲寺にしたと伝わります。義仲公は没後800年を超えても、其の徳を偲ぶ方々が今でも義仲寺を多く訪れ現在に至っております。

義仲公の位牌 乱世を駆けるより
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注釈1
この惟宗忠久こそは、後に戦国最強と恐れられた島津氏の始祖です。後の彼の子孫は薩摩国ただ一国で大英帝国と渡り合った程に強い国と民を創り、明治維新を先導するなど大貢献する事となるのは皆さまがご存知の通りです。

注釈1
文献によると頼朝公は配下の稲毛重成という武将が造らせた相模川にかかる橋の竣工式に出席し、其の帰りに義経の亡霊に遭遇して落馬したと伝わります。そしてその事がもとで命を失ったと言われております。其の稲毛重成が造らせた橋について面白い記述がごさいますのでご案内致します。稲毛重成は頼朝と一緒に都へ行った帰り道に妻の危篤の報を受けました。そして重成は頼朝公から早駆け出来る駿馬を拝領し急いで自領に戻ったのですが、増水した相模川を渡る事に時間を費やして妻の死に目に会えませんでした。そして稲毛重成は妻の菩提を弔う為と領民の為に相模川に架かる橋を建造したと伝わります。当たり前ですが鎌倉時代の事なので現在まで何百年も経過し、当時の橋は影も形も残っておりませんでした。ところが此の橋の橋脚が関東大震災の揺れによる液状化現象で、いきなり田んぼの真ん中にニョキニョキっと出現したのです。当時有名な歴史学者である沼田頼輔などの専門家が鑑定し、稲毛重成が建てた橋の橋脚であるとされました。現在では国の史跡として指定される他、国の天然記念物にも指摘指定されております。

相模川橋脚 Wikiより
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注釈2
この惟宗忠久こそは、後に戦国最強と恐れられた島津氏の始祖です。後の彼の子孫は薩摩国ただ一国で大英帝国と渡り合った程に強い国と民を創り、明治維新を先導するなど大貢献する事となるのは皆さまがご存知の通りです。

※ 木曽源氏の家紋
最後に木曽義仲公の威徳を偲んで木曽源氏の家紋をご紹介させて頂きます。

丸に二つ引両紋 
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この家紋は天皇家征夷大将軍に下賜する紋てす。義仲公が征夷大将軍に任命された時に後白河院から拝領しました。此の旗を掲げて合戦に挑めば勅命で有る事の証となりました。

五七桐紋  
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此の紋は菊の御紋に次ぐ皇室の副紋です。後鳥羽天皇から義仲公へ下賜されました。その後は足利家や豊臣秀吉などが使用し、明治以降は日本の総理大臣や日本国政府の使う紋されております。

笹竜胆紋  
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笹竜胆は有名な源氏の紋ですが、正確には源氏の頭領が使用する紋と伝わります。



※ 御礼
長きに渡り旭将軍木曽義仲公シリーズにご訪問頂き、心から感謝しております。信州人の私は幼い頃から祖父や父から折ある毎に聞いていた義仲公や今井兼平の大ファンでした。其の興味は中学生の時に父の蔵書から借りた本を読んでから益々大きくなり、いつの間にか無駄に買った義仲公関係の本が50冊を超えている事に気が付いたのは妻と結婚して新居に移る時でした(その他も入れると1000冊超え?)。信州には他にも色々な戦国武将が足跡を残しておりますので時を見てご案内しようと思っております。最後に稚拙な文章の為につい独善的な表現となり一部の方には御不快な思いをさせた事をお詫び致します。

                平正良

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 22

※ 巴との別れと義仲公の最後
連続の激戦に疲れ果て、たった5騎で駒を進めていた義仲公でしたが、此処で一つの決断を致しました。義仲公が子供の頃より共に暮らし、旗挙げの後に数々の激戦をくぐり抜けた巴だけでも逃がそうとしたのです。義仲公は『お前は女であるからどこへでも逃れて行け 自分は討ち死にする覚悟だから最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない』と辛口の言葉で巴に伝えたと言われております。最初は『嫌です』と否定し続けた巴御前ですが、其処は武家の娘ですので義仲公のお心を悟ったものと思われます。

義仲公の心中を察した巴御前は最後の御奉公をしてから去ると言いました。『平家物語』の『木曽殿最期』に巴は『色白く髪長く、容顔まことに優れたり 強弓精兵 一人当千の兵者なり』と有ります。髪の長い色白美人の反面、強力な弓を引けて物凄く強い女武者であったという事です。

巴御前と義仲公との別れ 乱世を駆ける』より
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そして最後の御奉公の場面が直ぐにやってまいりました。敵の猛将である恩田八郎師重が率いる30騎の一隊が現れたのです。恩田八郎師重率は剛力無双の武者として名を馳せていたと伝わります。さっそく巴と恩田八郎師重率は対峙して組みあいました。巴はいとも簡単に恩田を馬から引き摺り下ろして首を捻じ切ったのです(捻切る?)。

恩田八郎師重と組み打つ巴御前 『乱世を駆ける』より
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戦い終えた巴は義仲公を護る為に今迄ずっと戦いましたが、もう戦う必要が無くなった語り鎧を脱ぎ捨てたと伝わります。色恋の話は苦手で無粋な小生でも此の場面の巴御前の気持ちは察するに余り有ります。こうして巴は義仲公に別れを告げました。そして恩田の一隊が恐れ慄いて逃げて行くのを確認しながら落ちて行ったのです。私の勝手な推測ですが、義仲公と共に此れだけの戦いを生き抜いて最後まで義仲公を護った巴御前は源氏の守り神である八幡神の加護を受けていた女性のような気が致します。そして女神が去った義仲公は此の後直ぐに命を落としてしまいます。此の後の巴御前は消息がハッキリとしておりません。尼になって余生を送ったと言う説と、尼になった後に鎌倉方に捉えられましたが、巴の美貌に一目惚れした和田義盛の側室なったとも言われております。和田義盛との間には男子が生まれ、此の男子は剛力で有名な朝比奈三郎義秀だったとも伝わりますが、巴ほどの女傑が和田義盛の側室になるとは想像が出来ません。

和田義盛 鎌倉殿の13人より
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此のサンダー杉山の様な方が朝比奈三郎義秀です。
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義秀は2代将軍の頼家が其の達者な水練の程を見たいと所望した時に海に深く潜り、なんと3匹の大鮫を抱き抱えて浮上した剛の者と伝わり、こんな芸当が出来るのは巴御前の子供だからと言われたと伝わります。

残る4騎は義仲公に今井兼平、手塚別当と甥の手塚太郎金刺光盛でした。次から次へと襲ってくる敵に追い込まれるなかで弓の名人である手塚光盛は討ち死にしてしまいました。そして同じ一族である手塚別当は怪我をして離脱したと伝わります。頼朝公は後に義仲公の残党狩りで、諏訪大社の神事の為に合戦に参加出来なかった兄の金刺盛澄を捉えさせて鎌倉に連行しました。兄の金刺盛澄は刑が決まるまで梶原景時に預けられておりました。しかし盛澄の武芸を惜しんだ景時の配慮で助命が成った経緯があります。失礼とは思いますが2019.7.22のブログ記事の『史跡 梶原景時館跡』を興味の有る方はご覧下さい。

鎌倉殿の13人における梶原景時の配役は凄まじくピッタリです。 鎌倉殿の13人より
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さて残るは義仲公と兼平の2騎と成ってしまいまた。馬上の義仲公が『日ごろは何とも思わない鎧が今日は重くて仕方ない』と言うと、兼平は『それは味方に勢がいないので、そう感じるのです。たった一領の鎧が急に重く成る訳がありません。兼平を千人の兵とお考えになって下さい』と励ましたと伝わっております。そんなさなかに義仲公侍従を新手の一団が襲いかかりました。義仲公に大将軍らしい立派な最後を遂げてほしい今井兼平は『どうか私が残りの矢で敵を防いでいる間に、あの松原の中で静かにお腹を召してください』と言いました。2人が話している最中にも追手の放つ矢は2人の近くに突き立たってまいります。場所は近江の粟津で琵琶湖のほとりでした。

義仲公は此処で2人一緒で敵に決戦を挑んで散ろうと兼平に言いましたが、兼平は主君がを雑兵の手に掛かって落命するのは悔しくて堪りませんでしたので『何卒立派なご最後を〜』と言って箙(えびら)に残る矢を強弓につがえました。

兼平の一途な気持ちに折れた義仲公は一人で松林に駒を進めたのです。主人の最後の時間を創る目的で奮戦する今井兼平は強弓から矢を次々と放って瞬く間に数騎を打ち取りました。『我こそは源義仲の乳兄弟、今井兼四郎兼平なり』と名乗りをあげて果敢に戦ったのです。事が此処に及ぶに至っても猛将今井兼平の武勇は健在でした。あっと言う間に中間を数人討ち取られた敵軍は兼平から矢の届かない距離まで引いたのです。流石は木曽権守中原兼遠公の血を受け継ぐ武将であり、正に木曽武者此処に有りの勇姿です。

粟津合戦 今井四郎打死之図 歌川芳員
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義仲公に見事な最後を迎えて貰う為に必死に戦っていた兼平の為に義仲公は松林に向かっておりました。ところが季節は激寒の冬で時間は夕方だったので、馬が薄氷の張った泥田に乗り入れてしまったのです。身動き出来ない義仲公は兼平が気になり振り返りました。その刹那です! 敵が放った一本の矢が義仲公の眉間に突き立ったのです。落馬した義仲公に対して和田一族の石田次郎為久が駆け寄って腰刀で首を落としました。そして『長きにわたり剛勇の誉高き木曽殿を討ち取った〜』と大音声で叫んだと伝わります。一代の英傑である旭将軍木曽義仲公はここに31年における波乱の人生に幕を閉じました(合掌)。


義仲公に最後まで付き従った今井四郎兼平ですが、義仲公の自決する時間を稼ぐ為に敵の真っ只中に突入し、矢を放ち矢が尽きると太刀を振りかざして奮戦しておりました。其の激戦の中で石田次郎為久の発した大音声を聞いたのです。

もはや守るべき主君は討たれてしまった兼平は、その場で自決を決めました。兼平は馬上のまま敵に対して『これ見給え 東国の殿方達 日本一の剛の者が自害する手本よ』と大音声で叫び、己が太刀の切っ先を口に咥えて馬から真っ逆さまに飛び落りたのです。義仲公に最後の最後まで忠誠を尽くした希代の英雄の壮絶な死に様でした。鎌倉勢は兼平の最後に度肝を抜かれました。そして主人に最後まで忠誠を尽くした兼平に対して敵ながら天晴な最後だと讃えたと伝わります。そして兼平の最後は其の健気さと主人を思う一途な気持ちが現在でもなお信州人に言い伝えられております。此の時の義仲公は31歳、兼平は33歳でした。

写真は夏の陽光降り注ぐ木曽川です。粟津で散った2人の魂魄は遠く木曽の山谷へ出向き、養父である中原兼遠公に出会って色々報告していたと思われます(合掌)。
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そしてもう一人の四天王で兼平の兄で有る樋口次郎兼光は行家を討伐する為に紀伊国に向かっていましたが、途中で訃報に接っしたのです。兼光は主の義仲公と弟の兼平が既に此の世に居ない事を知り、男泣きに涙を流して悲しんだと伝わります。主人を失った悲しみも有りますが、恐らくは主人を守りきれなかった無念の涙だと推察致します。都へ上る途中で兼光の母親の実家である児玉党から説得により兼光は武装解除したと言われております。児玉党にしてみたら既に孫で有る兼平を打たれてしまっているので無理からぬ事です。児玉党の考えは自分らの功と引き換えに兼光の命だけは助けて貰うように取り計らう事でした。しかし鎌倉勢に身柄を預けられた兼光は助命が許されずに首を打たれたのです。児玉党は誠意を尽くして己の功と引き換えで孫で有る兼光の助命を幾重にも嘆願したので鎌倉方の将軍で有る義経も此れを納得したと伝わります。しかし朝廷に奏聞したところ後白河院と其の側近達が義仲公を陥れた報復を受けるのを恐れて許さなかったのだろうと推察致します。  

樋口次郎兼光  若き頃には民を苦しめる白い大猿を退治した強者で有ると伝わります。   Wikiより
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樋口兼光と言う武将は派手ではありませんが義仲公を多方面で支えた大忠臣です。兼光は死に至って『主を守れなく、また主の最後に立ち会えなかったのは無念なので、せめて死後は近くで主を守護したい』と自分の首は義仲公の横に据えてほしい遺言したと伝わります。己が命が絶たれても尚、主である義仲公に忠義を尽くすとは、木曽権守中原兼遠公の子達は全く持って凄すぎて言葉が有りません。兼光の此の言葉は弟の兼平の行動と同様に後世に語り継がれております。


此処からもう一つの義仲公の死後に続く悲話がございますが、短くないので次回にご紹介致します。此の話は頼朝公に塗炭の苦しみをもたらせ、妻の北条政子を不適応障害(ノイローゼ)にし、罪もない鎌倉幕府に忠実な武者の命が犠牲に成りました。


次に続きます