みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 8

北陸への進軍

物語の都合上により此処で少し頼朝公の話をしないといけません。頼朝公は横田河原の戦いの少し前に行われた富士川の戦いで勝利した後、平家を追い討ちせずに自分の地盤を固める為に一旦鎌倉へ戻ります。此処が政治の天才である頼朝公の少し違うところですね! 頼朝公は鎌倉に於いて政務機関の整備を行い、従った武将に土地の所有権を認める『本領安堵』や功の有った者には新たな所領を配分する事により、恩を受けた武家が今度は頼朝公に奉公すると言う仕組みを創ります。つまり幕府の根幹となる御恩と奉公の仕組みを創って行ったのです。当然ですが此の仕組みは幕府を頂点とするシステムです。従って逆らう者や幕府に無関心な者は存在してはいけない事に成ります。論功行賞を済ませた頼朝公は直ぐに出陣致しました。


鶴ヶ丘八幡宮で行われていた流鏑馬の射手です。以前にたまたま鶴ヶ丘八幡に訪問したら武田流流鏑馬が行われておりました。
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しかしそんな頼朝公は木曽義仲公が見事に横田河原の戦いに勝利した事により、義仲公の関東における勢力拡大を恐れ、都とは真逆な北関東への勢力拡大を図ったのです。北関東の源氏一族には清和源氏源頼信の流れを組む志田氏、足利氏及、新田氏、佐竹氏がおりました。同じ清和源氏でも畿内に留まる一族と地方に基盤を求めた一族が居たのです。上述の一族や信濃源氏などが其れにあたります。此の事は平氏でも同じで、上総平氏、千葉氏、三浦氏、河越氏などが其れにあたります。鎌倉幕府執権北条氏も伊豆に活路を求めた平氏の一族でした。

中央とは別の独立した動きをしていた北関東の源氏一族の中で、平家に取り入って勢力拡大を図っていたのが佐竹氏でした。頼朝公は同じ源氏でも平家に味方した佐竹氏のを討伐を行う事で北関東の源氏一族に武家の頭領は頼朝だと分からせる様に仕向けたのです。こう言う時の頼朝公は源氏一族でも全く容赦しません。

そんな頼朝公も後に自分の血縁が3代で絶えるとは夢にも思って無かった事でしょう。そして鎌倉幕府を担った北条家も後に源氏の地方豪族である足利氏によって滅ぼされるのはご存じの通りです。

頼朝公による佐竹討伐は治承4年10月27日に行われました。富士川の戦いが同年の10月20日でしたので間髪入れない進軍だった事になります。佐竹氏の常陸国金砂城は難攻不落の山城でしたが、頼朝公は騙し打ちに近い色々な策略を用いて此れを落としました。奥七郡(常陸北部)を支配する佐竹氏を落とした事で常陸の豪族の大部分は頼朝公に従ったのです。

残る北関東の有力な源氏勢力としては、頼朝公や義仲公にとって叔父にあたる志田義広(注1)でした。志田義広常陸国志田を拠点した武将であり、都に居た時は帯刀先生の職についていた重鎮です。肥沃な常陸国で基盤を築いていた志田義広は強い勢力を持ち、甥にあたる頼朝公が鎌倉に武家政権を開いても全くなびかない武将でした。頼朝公は例え叔父にあたるとしても源氏の頭領は自分であるとして、鎌倉に有りながら執拗に揺さぶりを掛けたのです。志田義広は徐々に追い詰められて行きました。頼朝公は追い詰めながら志田義広討伐の謀略を着々と進めて行ったのです。

その後ずっと我慢して来た志田義広は、やがて堪忍袋の緒が切れて頼朝公に対して挙兵したのです。座して滅亡を待つより一戦交えて一矢報いたいと考えていたかも知れません。領地が隣接している藤姓足利氏と同盟を結び、更に小山朝政にも挙兵を呼びかけました。小山朝政は下野国寒河御厨(注2)を本貫地とする豪族です。小山朝政は志田義広に味方する旨を伝え、館に来て一緒に軍議をしたいという旨を義広に伝えて来ました。其処で志田義広は軍を率いて小山朝政の館に向かったのです。

しかしこれは頼朝公が練った謀略でした。頼朝公に懐柔されていた小山朝政は警戒を解いて行軍していた志田義広の軍を待ち伏せして襲ったのです。此の戦いを『野木宮合戦』と言います。戦いの内容は省きますが大混戦だったと伝わります。志田義広は強い武将ですので小山軍程度なら蹴散らしますが、今回は警戒を解いていた事と小山朝政の軍に源範頼や結城朝光等の援軍も加わっていた事が災い致しました。流石の志田軍も多勢に無勢で劣勢となります。やがて多くの死傷者を出して志田義広は僅かな兵と共に敗走致しました。この戦いは小山軍の勝利と成りました。頼朝は志田義広の領地を召し上げ、更に志田義広に味方した武将の領地も全て取り上げ、小山朝政と小山側についた武将に恩賞として与えました。此の事により小山氏や宇都宮氏などは後の鎌倉幕府における有力御家人としての地位を固めます。更に此の戦いにより北関東で頼朝公に歯向かう勢力は無くなったのです。

当時の関東地方の地図 wikiより
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落ちのびた志田義広は兄弟である源行家と一緒に信濃国与田城にあった源義仲公を頼ったのです。源行家は頼朝公と口論になり、頼朝公から離れておりました。義仲公は叔父である2人を快く迎え入れたのです。身内に厚い義仲公は此の二人を招き入れた事で後に大きな災いをもたらせます。 

頼朝公は同族といえども反目する者には容赦ない仕打ちを行いました。其れに対し義仲公は大きな合戦に勝利し、合戦に勝利した強い武家を多く従えているにも関わらず、信濃国の源氏に対して脅したりする事は一切有りませんでした。横田河原の戦いを傍観していた同じ源氏の村上氏や平賀氏に対しても参陣を強要する事は全く無かったのです。此の様に頼朝公とは全くタイプの違う源氏嫡流の義仲公に、北陸の大勢力である宮崎氏や石黒氏は付き従ったのです。漢が漢に惚れたのかも知れません!此れを知った頼朝公の義仲公に対する警戒感は更に増して行きました。

さて義仲公は横田河原の戦いの後に城長茂が去った越後国府に入りました。此処から北陸道に沿って兵を進める為です。此処から北陸道に沿って新たな戦いが始まってまいります。先にもご案内しましたが北陸道は平家の食糧調達路です。北陸にも平家の横暴に不満を持つ勢力が多く存在しておりました。

越後国府について少し説明致します。現在の糸魚川市近辺から石川県にまたがる地方を往古には『越の国』と呼ばれておりました。その後に越前・加賀・能登越中・越後・出羽の六つの国に分かれて其々に国府が置かれました。此の時の越後は現在の頸城郡(くびきぐん)に国府が置かれていたと言われております。これは現在の上越市の事です。国府を置いたので上越後(かみえちご)と呼ばれ、『上越』に成りました。ですから越後国府とは新潟市では無く、日本海沿岸の上越市に有り、海岸線を通れば富山県や石川県には容易に行けたのであるとご理解頂ければ幸いです。(実際の街道は海岸線ギリギリを通り、常に波にさらわれる危険性が有った街道でした(親不知子不知が有名ですね)。


越の国の女王で大国主命の奥様である奴奈川姫。新潟県糸魚川駅前にある像です。
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親不知子不知 
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此の写真の山と海の際の部分が街道でした。高波が来たら一発アウトでオサラバとなります! 親と子も別れて走るくらい危険だったと言う事です。此のこの街道を北陸の武将は通過していたのです。かなり危険な道であったと思われます。 糸魚川市HPより 

当時の北陸(越中、加賀、越前)には武士団を率いる貴族が居りませんでした。越中では宮崎党や石黒党が勢力を持ち、加賀には林氏が居りました。また越前には幼い駒王丸と母である小枝御前を救ってくれた斎藤実盛公の出身地と言う事もあって斉藤氏が勢力を持っておりました。北陸の豪族は信濃国より都に近いので直接的に都の要人と結びついた勢力が多く存在していたようです。

宮崎党を率いる宮崎太郎が北陸の武将に呼びかけを行い、石黒党や林光家を参集させました。越後国府にあった義仲公は北陸の有力武将が面会に訪れた事を喜んだと伝わります。此の『宮崎太郎』と出会った事は義仲公にとって大きな助けとなりました。宮崎太郎こそは義仲公が会うべくして会った北陸越中の英勇でした。

此の後に宮崎太郎の案内で越中入りした義仲公は大変な人物にお会いしたのです。その方こそ以仁王の第一皇子である『北陸の宮』だったのです。父親の以仁王が打たれた後で讃岐前司重季(さぬきのぜんじすげすえ)によって宮崎太郎の元に下向致しておりました。北陸の宮は義仲公の兄である源仲家を知っており、義仲公は深く感じ入ったと言われております。義仲公は宮さまを何時か京の都にお連れする事を誓いました。北陸の宮はこれ以降は義仲軍の正当性を証明してくれる御旗と成ったのです。義仲公は強大な勢力を持った宮崎太郎が味方に付くなど新たな足掛かりを北陸に得た事になったのです。越後の城長茂を破った事は本当に大きな影響を及ぼしておりました。義仲公は北陸に今井兼平と根井小弥太を残す事にしたと伝わります。

立山連峰  wikiより
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富山県と言えば立山ですね。雪の立山は正しく霊峰だと思います。恐らく北陸の宮も霊峰立山をご覧になっておられたと思います。それと日本酒の『立山』も最高ですね! 佐々成政の『成政』を冠した日本酒もごさいます。


越中清酒『なりまさ』です! 信長公黒母衣衆筆頭の勇姿を思い描きながら飲むと酒量
を忘れます。
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一方世の中では『養和の大飢饉』と言う深刻な食糧不足が起こっておりました。これは養和元年に発生した京都を含めた西日本一帯の大飢饉であり、源平の争乱期の真っ只中で起こりました。一説には餓死者が4万人を超え、都ではそこら中に遺体が転がり悪臭を放っていたと文献には残っております。平家の基盤はご存知の様に西日本です。此の間に平家は戦どころではなく、源氏追討なんて全く出来なかったのです。都には基本的に食料が無く各地から運ばれる物資のみが頼りでしたので特に酷い惨状でした。此の間に頼朝公も義仲公も基盤を固める事が出来たのです。 (フシギデスネ)

北陸の宮と言う旗印を得た義仲軍でしたが、此処で新たな火種が起こりました。源頼朝公が自ら軍を率いて鎌倉からやって来たのです。狙いは義仲公が本格的に力を持つ前に潰してしまおうと考えです。この頃の義仲公は頼朝公との争いを避ける為に依田城から越後国府に拠点を変えておりました。

頼朝公は野木宮合戦で落ち延びた志田義広と自分に不満をぶちまけて出奔した源行家が義仲公の元に加わった事を口実に義仲公に向けて兵をあげたのです。頼朝公からすると『匿った』となり、義仲公からすると『擁護した』です。頼朝公にとっては出過ぎた杭である義仲公を打つ丁度良いキッカケ、義仲公は叔父さん達が困って来たのだから助けてやりたいだけだったのです。

頼朝公の軍には事前の談判通りに甲斐源氏頭領の武田五朗信光が加わり、更に八カ国の恩賞目当ての武士も駆け付け、その数は十万程に膨れ上がっておりました。義仲公は身内と争いたくない気持ちです。対して頼朝公は身内でも自分になびく者以外はやっつけるという気概です。義仲公に決断の時が迫ります!

次に続きます。



※ 注釈

注1
志田義広について
都では帯刀先生の職に着いていた事もある源氏の重鎮です。志田義広は甥っ子で格下である頼朝公には決してなびきませんでした。頼朝公の父である義朝公は自分の父である河内源氏棟梁の源為義公とも争いました。志田義広からすると平治の乱ので負けた父の首を兄である義朝公自らの手で打ったので、そんな兄の子である頼朝なんかに従う気は全く無いのです。あくまで私感となりますが、志田義広は様々な文献を見るに人格者だったと考えます。父と長男が殺しあったと言う辛い思いをした志田義広は、むしろ家族を大事にした清盛公とは全く逆らう事が有りませんでした。

注2
御厨は『みくりや』と読みます。 御は『神』で厨は厨房(台所)となり、神様の台所、つまり神饌を調進する場所の事を言います。この時代の神社仏閣は多くの領地を全国に持っておりました。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 7

義仲公が平家に対して反旗の動きをしている事はあっという間に信濃国中に広がっておりました。その頃の義仲公は兼遠公の元を離れて根井行親の庇護を受け、拠点を依田城に変えておりました。

春日大社にある国宝に指定されている大鎧です。
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平安時代に騎乗で矢を射る高位の武将の姿が身に浮かびますね。しかし幅広で高い鍬形ですね! wikiより


参集した武将を『源平盛衰記』から見てみると根井大弥太行親、根井小弥太、楯親忠、八嶋行忠、落合兼行、根津貞行、根津信貞、海野行弘、小室太郎、望月次郎、望月三郎、志賀七郎、志賀八郎、桜井太郎、桜井石突次郎、平原景能など錚々たる信濃武士です。義仲公が依田城を拠点としたのは東信濃の武士達の結集が一つの目的だったと思われます。

依田城跡 『乱世を駆ける』より
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信州には信州→神州と言われる伝承が多く残ります。特に信濃国に攻め入る武将は其の事を重く考えていたと色々な文献でよく見ます。特に北信から東信にかけては大国主命と『越の国』の女王であった『奴奈川姫』の御子神である『建御名方神』に関係する伝承が多く残ります。建御名方神信濃国一の宮である諏訪大社の御祭神の一柱です。建御名方神と奥さんの八坂刀売命との間にお生まれになった御子神様に纏わる伝承を持つ神域が多く残っているのです。例えば佐久地方の新海三社神社のご祭神の一柱である興波岐命は建御名方神御子神さまで『諏方大明神画詞』では『新開之神』(にいさくのかみ)と記されてます。にいさくの『サク』が現在佐久平インターの有る佐久市の語源となっております。また信濃には修験道の聖地である霊峰飯綱山や天津の神々唯一の共同作業であった『天の岩戸伝説』における天の岩戸を手力男命が運んで隠した戸隠山も存在しております。また安曇野には海洋民族である安曇族の祖神を祀る穂高神社伊那市にはゼロ磁場の分杭峠秘仏である阿弥陀如来三尊像を本尊とする善光寺、古代の神である生島の神と足島の神を祀る生島足島神社、国宝仁科神明宮など沢山の神域を有します(生島大神.足島大神は国土の神様で有り格式的にも別格の神様です)。


話は義仲公の事に戻ります! 新しく拠点とした依田城は現在の上田市御嶽堂に有ったお城です。時期の表記は前後致しますが、義仲公は武蔵国大蔵館で焼き討ちされた父親の旧領である上野国(こうずけこく)の多胡郡に赴き、亡父の旧臣である多胡党と称する軍団を味方に付けました。味方に付けた中に源頼政に従って戦った矢田義清がおります。この方は並の武将では有りません!目立ってはおりませんが豪傑であり、後の数々の戦いに参加して武功をあげ、最後は平家が船戦の強さを見せ付けた『水島の戦い』の最中に凄まじい最後を遂げた武将です。此の戦いで陸戦中心の源氏は、始めて水軍の戦い方を知ったのです。あまり知られていない事ですが、陸と海の戦い方は戦法が全く異なるのです。

※ 市原合戦 治承4年9月
信濃国では平家方の豪族である笠原頼直が兵をあげました。笠原氏は高井郡笠原(現在の中野市)を拠点としておりましたが、善光寺一体の支配を目論んで戦いを挑んで来たのです。善光寺を治めていたのは河内源氏村上流の栗田寺別当範覚です。栗田範覚は盟友の村山義直と組んで此れに対抗しました。軍を進めた両軍は信濃国市原にて合戦と成ったのです。笠原頼直は強い武将だったと伝わります。両軍一歩も引かない一進一退の激戦を繰り広げました。信濃国市原とは現在の長野駅の近くにである長野市若里辺りを指します。(街道の支道沿いに位置する麻績村では市原合戦と麻績.会田の合戦が同じであると伝わっております 注1 )


wikiより  
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激戦だった市原合戦の舞台となった長野市若里にあるビックハットです。長野オリンピックではホッケーの会場となりました。同じように若里にはNHK長野放送局や長野赤十字病院など県内とって大事な枠割をする建造物が多く存在します。

市原合戦は両軍激しく刃を交えましたが、戦力は拮抗しており、陽が落ちても決着が付かまずに夜を向かえました。そんな中で源氏方の陣から依田城に救援要請の使者が送られました。傷だらけの使者から報告を受けた義仲公は使者の手当を行い、使者に戦略を授けました。さっそく義仲軍も直出陣の支度に取り掛かりました。義仲公の旗下に列する武将達は其の力は山をも抜く猛者達です! しかし兵をの数は少なく、おおよそ3,000騎だったと伝わります。

栗田範覚と村山義直の軍は敵と正面衝突を避けて義仲軍の到着を待ちました。笠原頼直は苛立っていたと思います。しかし敵とはいえ笠原軍も元々強い軍です。義仲公が救援に来る前に決着をつけようと大奮戦したと伝わります。しかし予想に反して義仲軍は早く到着し、あっと言う間に形勢を逆転させました。味方総崩れで劣勢に成った笠原頼直は、直ぐに兵を引き上げて越後の大勢力である城長茂を頼って命からがら落ち延びたのです。

笠原頼直が頼った城長茂(じょうながもち)は従五位下越後守です。当時の城氏はとんでもなく巨大な武士団でした。長茂自身も身長が7尺(2m10cm)を超える偉丈夫だったと伝わります。現代と比較するとしたらジャイアント馬場が2m9cmなので同じ位の大きさです。今から840年前は5尺を超える大男と言われた時代です。小学生の中にジャイアント馬場が居る感じでしょうか?


横田河原の戦い 治承5年6月
とうとう前半戦のハイライトが始まります!
この少し前に一代の英傑である平清盛高が没しており、平宗盛が平家一門の棟梁となっております。


横田河原のスーパー略図です! 
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私が筆ペンと蛍光マーカーで書いた稚拙極まり無い図なので分かり難いと思いますが、どうかお許しください。此の図を見てピンとくる方も多いと思います。若干のズレはございますけど横田河原の合戦は後世の川中島の合戦とほぼ同じ場所で行われました。横田河原の合戦の有った平安時代後期から三百数十年の時を超えて信玄公と謙信公が同じ場所で戦ったのです。川中島はそれだけ往古より重要な場所だったという事になりますね! 少しだけ川中島の話を致します。千曲川犀川から運ばれる肥沃な土壌は大きな恵みをもたらせました。信玄公と謙信公が争った時の川中島一体で収穫出来るお米の量は、当時の越後一国の取れ高を上回っていたと言われております。余り知られておりませんが、実は恐るべし川中島なのです! 


市原合戦後の義仲公率いる信濃源氏軍は、大勢力である城長茂軍と如何にして戦うかの軍議を、連日依田城内で行っていた事だろうと推測致します。越後と信濃を結ぶ道は幾つかあるのですが、三国峠を超えると依田城は直ぐの場所にごさいました。城長茂と合戦に出陣した後に城氏の別働隊が三国峠を超えて留守になった依田城に攻め込む可能性があるので、此方も別働隊を編制するなど色々な決め事が定められいたと思います。

しかし義仲軍には海野家や滋野一族など周辺の地形に明るい武士団が多く存在するだけに、地の利は義仲軍にありました! 文献によると義仲軍は隊を幾つかに分けて戦いに挑んだと伝わります。それぞれの隊には歴戦の猛者が大将に付きました。文章で書くとお伝えし難いのですが、実はこれだけでも大変な驚きなのです! 例えばですが当時に於いて諏訪大社善光寺犬猿の仲だったと伝わります。つまり普段はあまり仲のよくない武将同士が組んでいた事になります。そう考えると其処は義仲公の血の力と御人徳だったかも知れません。

城長茂は何と1万(一説には4万)の大群を引き連れて横田城から押し出して千曲川の手前に布陣致しました。一方義仲軍本隊は千曲川沿いに兵を進め、雨宮の渡しを渡って城長茂と対面する形で布陣したのです。義仲軍は隊を幾つかに分けている常態だったので、城長茂から見れば目の前に布陣する義仲軍本隊は少ない兵数に見えたと思います。越後から進軍する大軍を見て信濃の小さい城は殆ど長茂に恭順の意を示してまいりました。大軍を率いていた長茂は少し義仲軍を甘く見ていたかも知れません。義仲軍は寡兵とは言え寄せ集めでは無く、義仲公の下に自分の意思で参陣した猛者たちなのです。矢合わせの後で両軍は戦闘を開始しました! 此処の地形の良いところは多勢で囲もうとしても山や川が其れを阻み、一気に攻められないと言うところが有ります。

城軍が本拠を置いたと伝わる横田城跡
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此処は長野市篠ノ井に有りました。実は篠ノ井高校に通っていた私の通学路上に有りました。長野市文化財データベースより

義仲軍本隊は数に勝る越後勢の猛攻を見事に防いで戦況は一進一退でした。隊を分けた分だけ初戦に挑む兵が少ない義仲軍本隊でしたが、義仲公自ら囮になるなど敵の目を正面に釘付けにしたのでした。そして何とか横田河原に城長茂の大軍を引き出す事に成功したのです。

義仲公の狙いは分けてある遊軍の動きです。まず南西の側面から攻め入る手筈の義仲四天王の一人『知将樋口兼光』と弓矢に神技とも言える腕前を発揮する『諏訪神党』、そして北東部の側面から奇襲をかける井上氏の軍だったのです。本隊と合わせて三方向からの挟み打ちが狙いでしたが、時を逸すれば即敗北につながる危険な側面もございました。

女山から横田河原をみた光景 撮影したのが夏真っ盛りなので枝が少し邪魔でした。
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しかし私は地形をある程度知っているだけに井上軍が正面にいる敵に気づかれない様に迂回するとなると余程の遠回りだったと思います。しかし難路を超えて井上隊は見事に行軍致しました。井上隊は城軍の背後に平家の赤旗を掲げて回りんだのです! なんと城軍は赤旗を持つ味方が来たと大喜びで迎えいれました。

ところが井上隊は近くに来ると平家の象徴である赤旗をかなぐり捨て、源氏本来の白旗を掲げました! さあ味方が来たと大喜びしていた城軍はビックリです。見事に敵のウラをかいた井上隊の鬨の声が横田河原に響き渡ります。『源氏の大群が後方から攻めて来た〜』と城長茂軍は大慌てです。その慌てた城長茂の軍に正面から義仲公の本隊が襲いかかり、南東の方面から樋口兼光諏訪神党が駆け下り横腹を突きました。鎧兜を付けた城軍の武将を諏訪神党の武士団が放つ神の矢が次々と打ち倒し、根井大弥太行親は剛力無双の言葉通りに敵を薙ぎ倒します。義仲公も木曽源氏に伝わる宝刀の『微塵丸』を佩いて戦いに挑んでおりました。此の微塵丸は貫けぬ物無し、全てを微塵に貫くと伝わる霊刀です。三方向から挟み撃ちされた城長茂軍は瞬く間に多大な死傷者を出して横田河原合戦は幕を閉じたのです、城長茂と笠原頼直は命からがら敗走致しました。こうして横田河原の戦いは義仲軍の勝利に終わったのです。

市原の戦いが治承4年9月、横田河原の戦いが治承5年6月ですが、その前に頼朝公による有名な富士川の戦いが治承4年10月に行われております。

この勝利は義仲公の武名を一気に押し上げ、頼朝公による富士川の戦いの勝利と合わせて、世の中が本当に平家が負けるかも?と考えるようになって行ったのです。此の一戦後は更に多くの勝ち馬に乗りたい武将が義仲公の元に馳せ参じました。

敗れた城長茂会津まで落ちましたが、此処でなんと奥州藤原氏に攻められたのです。疲労困憊な城長茂はもう堪ったもんじゃありません! 仕方なく越後に戻り影を潜めました。此の後の城長茂の経緯として平家が滅びると源氏方によって捕らえられました。身柄は梶原景時に預けられて景時から擁護されました。梶原景時は嫌われ者の側面が有名ですが、何故か自分のところに来た敵方を助命嘆願する事が多く感じます。城長茂は後に景時が吉川氏と戦って滅びた後、御鳥羽上皇の幕府打倒側に付きました。しかし幕府打倒の兵をあげましたか余り賛同者が少なく、結局は打たれてしまったのです。


一番わかり易い義仲軍の主な合戦と年代です。 『乱世を駆ける』より
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義仲公の大勝利に危機感を感じた頼朝公が大郡を率いて関東にまいります。そして頼朝公は義仲公に無理難題を申し付けます。


※ 更科の義仲公の足跡
私の故郷である長野県千曲市に武水分神社八幡宮という地元の崇敬が厚い神社がございます。私の叔父も此方で神職をしておりました。此処には義仲公にまつわる物が多く残されております。帰郷時には事ある毎に通う我が家の氏神さまです。今思うと子供の頃から境内で遊んでいた罰当たりな子供でした。社伝によると創建年代については第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたと伝わる古社です。祭神は武水分大神(たけみずわけのおおかみ)と言う建御名方神の3世孫である武志名乃命の御子神さまです。また神域のある周辺は平安時代後期に京都岩清水八幡宮の荘園となっており、安和年間(970年頃)に八幡神を勧請したと伝わります。ご存知の様に八幡神は源氏の守り込みでした。

本殿は諏訪の二代目立川和四郎によって嘉永三年(一八五〇)に建てられたと社伝にございます。  武水分神社HPより
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神社の伝記によると義仲軍は横田河原合戦の前に武水別神社に立ち寄り勝利を祈念致しました。戦いが終わって見事に勝利をおさめた義仲公は小餅を沢山作って柏の葉に盛って神前に奉ったと伝わります。その際に村人等にも餅を分けて喜びを共にしたというの伝説が残っておりすます。義仲公は神社に土地も寄進し、現在でも義仲公が寄進した田で作った餅米を使って小餅が作られるております。この古事は現在でも毎年7月の半ばに『柏葉祭』として毎年行われております。

此れが其のお餅です とでも美味しそう〜です!   武水分神社HPより
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注釈 1
麻績村とはオミムラと読みます。不思議な名前ですが、古くから交通の要衝として重要視された土地ですので少し御案内致します。麻績村には半島の百済新羅に滅ぼされた事により、百済人が移り住んで帰化致しました。此の一族は麻を積む技術に長けていたと伝わります。それと合わせ古代の氏族で麻などの繊維を使って織物を造ってた麻績部が此の当地に土着した事が名前の由来と伝わります。なぜ交通の要衝かと言うと、京都から陸奥多賀城まで通じる道筋に有り、東山道から越後国府までを結ぶ支道沿いに存在していたからです。此の枝道を北国西街道、または善光寺西街道と言い、麻績宿という宿場町もございました。平安時代末期に麻績一帯が『麻績御厨』と言われて伊勢神宮の荘園でした。鎌倉時代には小笠原氏の庶流が此の地に移り住んで麻績姓を名乗り、麻績城を居館としました。麻績城はその後も残り、かつては立派な城下町もあったと伝わります。麻績宿から猿が馬場峠という摩訶不思議な名前の峠を越えて善光寺平に至ります。降りたら横田河原までは指呼の間なのです。横田河原も呼ばれた場所には長野自動車道と上信越自動車道の交わる更埴ジャンクションがございます。私の実家は此処で降りるのですが、戦死者を多く出した場所だけに毎回実に複雑な気分で通過しております。



今回も最後までお読み頂き
有難うございました。
次に続きます!

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 6

※ 旗上げまでの経緯

治承4年(1180年)に後白河上皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が源頼政の説得により平家討伐の令旨を出します。此の時に頼政以仁王に伝えた源氏の武将は50人を上回り、其の数の多さに以仁王は勇気づけられたと伝わります。信濃では八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光公の直系である岡田親義や同族の平賀盛義に伝わりました。そして源義賢公の嫡子である義仲公に伝わったのです。信濃国ではこの3人に令旨が伝わりました。

令旨(りょうじ)とは皇太子や皇后の命令を伝えるため発行された文書の事です。対して天皇の意を伝える文書は綸旨(しんじ)や宣旨(せんじ)と表現されてました。

此の令旨を源為義の十男である新宮十郎源行家以仁王の令旨を持って全国を伝え歩きました。

源行家 wikiより
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源行家は頼朝公や義仲公から見ると叔父にあたる方となります。駒王丸のお父さんである義賢公は次男です。義朝公→義賢公〜〜と来て最後が行家です。どうも個人的感情が先だったしまって詳しく紹介しておりませんが、此の新宮行家が義仲公を頼った事で後に義仲公に大きく貢献した事と逆に大きな厄をもたらせた事があります。

まず頼朝公の幕下に身を置いていた時、行家は頼朝公に領地を無心します。しかし公平を旨とする頼朝公は其れを認めませんでした。頼朝公と不仲になった行家は墨俣川の戦いでボロ負けして義仲公を頼ってまいりました。其の時に覚明(注1)という僧籍の男を連れて来たのです。覚明は義仲公の義侠心に触れて幕下に加わりました。此の覚明は義仲公の戦いに大きく貢献しました。義仲公が討ち死にされた後も大きな働きをしたと伝わります。最も行家が義仲公の元に来た事で義仲公は後に嫡子を頼朝公に渡さなければならなくなります。

以仁王頼政が挙兵とその後
挙兵した以仁王源頼政ですが、陰で行家が動いているのを熊野別当湛増に見破られました。以仁王源頼政の動きが清盛公に露見してしまいまったのです。その後は平家の大軍に囲まれて惨敗し、頼政は嫡子仲綱と共に平等院にて自刃、以仁王も奮戦したのですが討ち取られてしまいました。しかし一度くすぶった炎はそう簡単に消えません。

平家は以仁王の令旨が全国の源氏に伝わっている事を知っております! 当然ですが平家は危険な芽を摘む行動に移る事は想像に難く有りません。伊豆の頼朝公もその様な理由で治承4年に挙兵し、石橋山の戦いに挑みました。先を急ぐようで申し訳有りませんが治承4年〜治承5年は激動の2年でした。まず治承4年としては平清盛公の娘さんが産んだ子が安徳天皇として即位しました。コレで清盛公は天皇の外祖父となるのです。同じ歳に以仁王が平家討滅の令旨を発しました。そして此の年に富士川の戦いで平家が大敗します。治承5年は一代の英傑である清盛公が高熱を発する謎の病で没してしまいます。この最中で義仲公は治承4年に挙兵して市川の戦いに挑んでおります!

以仁王 wikiより
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※ 木曽次郎源義仲誕生 
話は戻ります! 木曽では駒王丸が元服を済ませて若武者ぶりを発揮しておりました。義仲公の元服については京の石清水八幡宮で行ったとも、木曽の兼遠公の元で行ったとも伝わっております。木曽の兼遠公屋敷跡には『元服の松』という大きい赤松がございます。何にしても元服後は木曽次郎源義仲と名乗りました。

元服前に兼遠公が動いていた内容
信州では事が起こる前に養父である中原兼遠公が先を読んだ行動に出ておりました。義仲公に当時の信濃国に於いて行われていた大々的な神事に参加する様に促していたのです。それは縄文の神である諏訪大社の(注2)御射山御狩神事(みさやまみかりしんじ)です。地域の豊作と風雨を防ぐ為の御贄(みにえ)を諏訪大明神に捧げる大切な神事でした。義仲公は巴や樋口兼光今井兼平を従えて参加し、並み居る信濃の有力な諸侯の中で抜群の腕前を発揮したのです。さすが八幡太郎義家公の血を引く若武者よと信濃中の強者が認めたと伝わります。そんな中で下社大祝で武門の誉高い金刺盛澄は義仲公を娘婿にと欲しました。また当時日本一の名馬の産地であった望月を領していた(注3)海野行親も娘婿にと懇願して来たのです。金刺家は諏訪大社下社の大祝で諏訪神党の頭領、海野行親は信濃の名族である滋野一族(注4)の頭領です。両家共とんでもない力を持った勢力でした。兼遠公の考え通り、義仲公に信濃の大勢力が味方したも同然な仕儀となったのです。

金刺盛澄 
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義仲公の上洛の際は諏訪明神の神事があって行けませんでした。義仲公が没した後の残党狩りで捉えられ頼朝公配下の超ウルサ方である梶原景時に預けられました。しかし景時は盛澄の神技とも言える武技を惜しんで頼朝公に助命嘆願し、盛澄は鶴ヶ丘八幡の流鏑馬神事に参加する事となりました。其処で周囲の度肝を抜く神技を披露して一族の命を守ったのです。盛澄は梶原景時が没した後に諏訪に祠を祀って命の恩人の威徳を偲びました。敵味方に別れていた相手とはいえ、武芸に秀でた漢を守った梶原景時は苦労人だけに盛澄が歩んで来た辛く長い修練の日々を慮ったのだと思います。諏訪大社下社の駐車場に立派な金刺盛澄の銅像がございます。

根井行親 wikiより 
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実質的に義仲軍の指揮官でした。此の方は御牧の馬を利用した最強騎馬軍団を持った武人です。怪力無双で人情に厚く人望のあった武将と伝わります。海野行親と根井行親は同一人物であると私は考えます(諸説有り)。
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大好きな武将なので写真をもう一枚! 根井大弥太行親 大きい体に大鎧を纏い、星兜を深く被った勇壮な姿です。糸巻き太刀拵えを佩いて、八幡太郎義家公が帯びていたと伝わる様式と同じ海老鞘短刀拵えを付けております。何とも強そうなお姿です。『乱世を賭ける』より


そんな中でとうとう木曽にも行家が以仁王の令旨を持って訪れました。中原兼遠公と義仲公以下は伏して新宮行家の読み上げた令旨を聞き入りました。兼遠公、義仲公をはじめ兼光、兼平、巴は恐らく武者振るいをしていたと思われます。少し前に伊豆の頼朝公にも以仁王の令旨が届いております。

改装前の義仲館に陳列してあった人形です。
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新宮行家が令旨を読み上げるのを平伏し聞き入ってシーンです。  書籍『乱世を駆ける』より抜粋

しかし義仲公は直ぐに京に向かうのでは無く、自分を育ててくれた信濃の地を戦の無い様に平定してから京へ上ると決めました。此の決断に対して行家は憤慨しましたが、義仲公はあくまで自分と母親を受け入れてくれた信濃国を最優先にしたのです。此の場面は義仲公の誠実さが現れた最初の場面だと私は考えます。

ほどなく義仲公に源頼政と源仲家が平家方に敗北して討ち死にしたという一報が入りました。悲嘆に暮れている暇は有りません!義仲公は木曽で挙兵致しました。

※ 平家の追求
丁度この頃に兼遠公の元に平家からの使いが来ました。内容としては義仲公を匿っていた事を疑われて弁明の為に京の都に来るようにとの事でした。都に呼び出された兼遠公は、平家の問に対して『シラ』を切りました。そして仮に義仲を見つけたら平家に差し出すと話をしました。普通の武人ではなく兼遠公は宮中で大外記を勤める上級官僚です。其の中原兼遠公が言った言葉なので平家は納得したと思われます。しかし平家は兼遠公に起請文書くように指示したのです。此の時代の起請文とは熊野神社の牛王宝印が押してある紙の裏に記すものでした。熊野権現は嘘や虚言を許さない神さまですので効力は抜群でしたが、兼遠公は世を正す為なら熊野の神もお許しになると考えて記したものだと考えます。

熊野牛王宝印
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其の後に兼遠公は根井行親に義仲公を託し、自分は剃髪し円光と名乗って林昌寺を開基し翌年には没してしまいました。英雄の養父としての役目はさぞ心身共にキツかったと思われます。中原家は代々宮中の大外記を勤めた家柄であり、兼遠公自身は木曽権守です。駒王丸と小枝御前を斎藤実盛公から託された事により、間違いなく源平合戦の一役を担った英傑です。兼遠公の子孫は有名なところで、次男である樋口兼光の流れを汲む直江兼続をはじめ様々なところで活躍致しました。私は釣りに行った時は林昌寺の前を通りますが、フィッシングキャップを取って必ず一礼する様にしております。

林昌寺  『乱世を賭ける』より
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義仲公が旗上げを行ったと伝わる旗上げ八幡宮です。八幡さまの国道を挟んだ斜め前方に程無く南宮神社がございます。書籍『乱世を駆ける』より抜粋
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写旗上げ八幡より100mくらい木曽川方向に向かった所に此の碑がございます。
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碑は自然石に文字を彫ったモノですが、造形美とでも申しましょうか? とても力強く印象的な造です。神社の辺りの台地は下の段よりかなり高い場所にあり、義仲公の居館が有ったと伝わる事も頷けます。


義仲公が挙兵したと言う情報は瞬く間に信濃中を駆け巡っておりました。伊豆の頼朝公は既に旗上げを行い、石橋山の戦いで敗れて上総に逃れております。周りの源氏勢が敗れているなかで義仲公の初陣が始まります。多くの信濃の武将が義仲公の元に参陣致しました。其の中には先に紹介した岡田親義もおりました。岡田親義は八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光の五男と伝わり別格の武将です。一族を引き連れて参陣した事に義仲公は頼もしく思った事と思います。義仲公は此処から幼虫が蝶になる様に後世に語り継がれる合戦に勝利し華々しく活躍致します。

そんな中、神の国である信濃国にも戦乱の狼煙が上がったのです。平家方の有力豪族である笠原頼直氏が義仲討伐の為に木曽へ侵攻する動きを見せたのです、勿論ですが対抗する源氏側も動きました❗️


次回はとうとう初陣です!

次に続きます! 



注1 覚明について

大夫坊覚明は義仲の右筆で有り、有能な軍師的な存在でした。武勇を誇る義仲陣営に有って筆が立ち諸事情に通じる知識人です。本名は信阿と言い、別に信救得業とも名乗っておりました。俗名は通広で藤原家出身と伝わります。原氏の勉学場である勧学院という学舎で学びました。その後は藤原氏の氏寺である南都興福寺の学侶をした経緯がございます。以仁王源頼政が平家に対抗しようとして南都興福寺に書簡を送った時には興福寺は味方をしました。其の書簡の返書を書いたのが後の覚明です。文中に『清盛は平氏の糟糠 武家の塵芥』と辛辣な表現で清盛公を激怒させたと伝わります。此の事で都には居られなくなったのです。逃亡劇の末に墨俣川の戦いでボコボコに負けた新宮行家が三河に居たので此れを頼りと致しました。溺れるもの藁をも掴むです。その後の経緯として新宮行家は頼朝公と上手くゆかずに義仲公の所に身を寄せる事となりました。此の時に覚明も一緒だった事から義仲公とのご縁が生まれたのです。文脈を正して相手に意を伝える才能に長けており、都の情勢に精通し、以仁王頼政の挙兵を詳しく知っている人物でした。個人的であり素朴な思いなのですが、何故に行家から義仲公に臣従する事を選んだのでしょうか? それと何故頼朝公のところに残らなかったのか? 私は義仲公のお人柄が行家は勿論ですが、頼朝公とも比べ物にならなかったのではないかと思う次第です。覚明が絡んだ事は沢山ごさいます。まず平家の食料補給路である北陸道を押さえた事、義仲公の都入りに際して延暦寺を味方につけた事、そして何よりも義仲公を征夷大将軍に押し上げた事です。また粟津で義仲公が最後を遂げた後に大夫坊覚明は義仲の子である義重と家臣30名余りを伴って広島に移り住んだとも伝わります。広島県尾道市向島町に覚明神社が存在し上述した事が伝わっております。頭脳明晰だけでは無く、忠義の心も貴族出身とは思えない傑物です。


注2
御射山御狩神事(みさやまみかりしんじ)とは、諏訪上社、下社とも盛大に江戸時代まで行われていた大切な太古より継続する神事です。最初に山宮という山頂にある社に大祝以下神官が詣でて国常立命虚空蔵菩薩に幣を献じて始まると伝わります。鎌倉時代には幕府の庇護により全国の御家人が参加する全国的な神事に変貌しました。神野に生きる鹿や猪などのを狩って御贄として神に捧げるのです。当然良い獲物を獲った武将の表彰式も行われ当時は『矢抜』と言われてました。抜いた矢に個人を特定出来る矢羽などが有るからです。面白い話をすると鎌倉幕府仏道の観点より建歴2年(1212)に鷹狩りを禁止しました。そんな中で信濃国諏訪大明神の御贄狩りだけは例外としました。そんな事もあって全国の御家人諏訪明神を自領に分社して御贄狩りと称して鷹狩りを行ったのです。此の事で信濃からとんでも無く遠い地域にも諏訪神社が有るのです。


注3
海野幸親は根井行親と同一人物だと私は思いますが、全くの別人という説もございます。恐らくは同一人物だと思われますので此処では其の様にご案内致しますがご容赦下さい。平家物語は豪勇無双の根井行親の凄さを確り伝えております。『一人を脇に挟んで強くしめたれば 草葉の如して ちとも動かず』『鎧の上帯を取て 深田へ向て 投げたれば死にけり』と根井行親を語っております。義に厚く、配下より慕われ、怪力無双で合戦では無類の強さを誇った義仲軍団最強の漢です。宇治川の戦い義経軍25,000に対して義仲軍はたった400でした。行親も千切っては投げ、千切っては投げで奮戦しましたが、多勢に無勢で最後には打たれてしまいました! 私は此の方がずっと後世に行われた姉川の合戦で太郎太刀を振り回し徳川軍を震え上がらせた豪勇真柄十郎直孝がカブるのです。根井行親は長男の行長、次男の行直、三男の楯親忠、四男の行忠など一族をあげて義仲公に従い、常に猛将ぶりを発揮して宇治川で華々しく散ったのです。

注4
滋野一族とは清和天皇の後裔と伝わります。古くから信濃に根付いた名家であり、海野氏、望月氏、根津氏の三家に別れました。因みに真田家は海野家の分家となります。真田家の家紋はご存知の様に六文銭と雁金ですが、六文銭は後世に三途の川の渡賃として伝わっております。しかし本当は星なのです、富士重工(スバル)のエンブレムと同じで『昴』であり、輝く六つの星を現しているのです。日本では『六連星』と言われており、読み方はムツラボシです。この六連星は遠くギリシャ神話に於てもプレアデス神話として現代まで伝わっております。不思議なのがギリシャ神話を読んでいると星が7つある様に書かれてます。チャイナでは昴宿(ぼうしゅく)と表現されてますね。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 5

鹿ヶ谷の陰謀(平家追討のキッカケ)
※ 治承三年の政変(後白河上皇から実権奪う)

今日は二項目なので
少し長めですが、お許しください!

義仲公旗上げの理由に付いてですが、色々な簡略化した文献で『令旨は木曽まで届き....』と書いてあります。しかし何故に後白河天皇の第三皇子である以仁王がそんな令旨をだしたのか?と言う事は教科書に全く出ておりません! もちろんご存知の方も多いと思いますが、本日はその原因となった『鹿ヶ谷の陰謀』と言う事件をチョッピリだけ深掘りし致します。そして実質的に福原にいた清盛公が兵を率いて京に進軍し、院の近臣達を押し退けて所領を没収し、後白河上皇を幽閉した『治承三年の政変』を順を追って御案内致します。

鹿ヶ谷は鹿ヶ谷通りとして名前が残ります。
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通りに有名な銀閣寺(東山慈照寺)が有りますよ! 東山文化とは銀閣寺一帯を東山山荘と言われていた事に因んでいると修学旅行の時にガイドさんの話で知りました。

まず鹿ヶ谷の陰謀からです。此れは京都の鹿ヶ谷にあった静賢法印(じょうけんとほういん)の別荘において後白河院の近臣達によって平家打倒の陰謀が話し合われていた事が発覚し、怒った平家が大暴れした事件です。平家打倒の謀議はかなりの回数行われていたのですが、この謀議には後白河上皇自らも出席していたとされてます。他には多田行綱(源氏)や後白河院の近臣であった藤原成親など平家の横暴に不満を持っていた立場ある人が参加してました。

まず一連のゴタゴタの前に大騒動がございました。場所は加賀の国、現在の石川県で事件が起こったのです! 後の理解に役立つので登場人物を少しご案内します。後白河院の近臣である『西光』は本名を『藤原師光』と言い、嫡子は藤原師高、弟は藤原師経です。後に出て来ますが師経が最初にやらかしました。

その前に、もう飽きたと思いますが宮中と平家の問題です。清盛公と後白河天皇の関係として、日宋貿易で大儲けして財力と武力を持っていた清盛公は朝廷に一族を入り込ませようと必死です。後白河天皇武家は使える存在だけど、朝廷まで食い込んでくるのは分不相応と考えておりました。正直に言って噛み合わないのは当然です。しかし、表向きは両者共良い関係を保っておりました。

後白河上皇平清盛公の義理の妹である平滋子(建春門院)と関係を結び高倉天皇をもうけてました。相変わらず清盛公は朝廷の要職を平家の者にするように一生懸命です。其れに対して後白河上皇は側近を要職につけ、自分の立場を守ろうとアレコレ画策しました。通常なら張り合う関係となりますが、平滋子(建春門院)が2人の橋渡し的な役目を行う事により清盛公と後白河上皇は良い関係を保っていたのです。

ところがパイプ役の才色兼備の平滋子(建春門院)が突然他界してしまったのです!大事な中継ぎ役が没してしまった後、しばらくしてから後白河上皇平清盛公の関係は普通に悪化して行きました。

悪い事は重なります。先に紹介した加賀で起きた騒動です。後白河上皇の近臣である藤原師光の嫡子藤原師高が加賀国司に抜擢されました。当時は国司となっても自分は都に居たまま目代として身内を送っておりました。師高は兄弟の藤原師経を目代として送ったのです。師経が加賀に出向いたのは夏真っ盛りであり、山越えで大汗をかいていたと伝わります。丁度通り道に山寺があったので汗を流したり、喉を潤す為に立ち寄ったところ、『国司だ〜』と言って横柄な態度の師経に僧兵達は腹を立て、例え国司と言えども寺社内で無礼を働く事は許さないと言って追払いました。弱っちい貴族なんか束になってかかっても敵わないくらい僧兵とは強かったのです。

大薙刀を持つ僧兵です wikiより
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信じ難い事だと思いますが、当時の寺社は独自に武装し衆徒も多く、正に独立した一大武装勢力だったのです。藤原師経は一旦逃げましたが、手勢を率いて夜討ちをかけ、寺を焼いてしまったのです。ところが此の小さい寺が白山信仰の由緒あるお寺だったのです。

菊理媛尊(くくりひめのみこと)を祭神とする白山信仰は超巨大勢力でした。其処に喧嘩を売ったのが後白河上皇の近臣と言う形です。話は此処から猛烈にヒートアップします! 白山信仰の勢力は仏道の最大勢力である延暦寺に助けを求めたのです。その話を聞いた延暦寺天台座主の明雲は怒り心頭となりました。天台座主の命により延暦寺は直ぐに行動に移しました! 伝家の宝刀である『強訴』です。

延暦寺の一コマ HPより
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延暦寺の僧兵は日吉大社の神輿を担いで寺を焼いた責任者らを処断しろとシュプレヒコールをあげて内裏に向かったのです。後白河院も事情を察して武家に守りを固めさせておりました。神輿を押し出した僧兵達は、此処で平重盛(たいらのしげもり)配下の兵と争いになり死者も出ました。争いの最中で清盛公の嫡男重盛はなんと神輿に矢を放ったのです。神仏への崇敬の念は今では想像も付かないほど遥かに強い時代ですので、此の行為は神仏を恐れない掟破りの行為でした。此の時は僧兵達が一旦延暦寺に引き返したのですが、このままでは全面戦争となる事を予見した後白河院は、近臣である藤原師光の嫡子である加賀国司藤原師高を配流とし、矢を射た平重盛の家人を処断致しました。コレは延暦寺側の要求を呑んだ事に成りました。

事はコレで収まると良かったのですが、事件の直後に安元の大火と言ばれている大火事が発生致しました! 歴史的建造物や公卿の邸宅が多く被害に遭ったのです。都では犯人は僧兵では...との憶測が有ったかどうかは分かりませんが、後白河上皇延暦寺の明雲天台座主をいきなり捕縛し、財産を没収して配流の刑としました。この事は後白河の近臣である藤原師光が子供の藤原師高が配流となっている仕返しで画策したのです。せんだっての強訴は明雲が日頃の恨みを朝廷にぶつける戦略だったと上皇に訴えた事が原因でした。

延暦寺白山信仰の衆徒より助けを求められて起こした行動です。藤原師光の完全なコジツケであり、やられた事のオカエシ状態ですね! 拘束された明雲天台座主の身柄は源頼政により護衛され、流刑地に護送されておりました。ところが近江国辺りに差し掛かると突然衆徒2,000人に囲まれ、明雲天台座主の身柄を衆徒達に奪回されてしまいました。このおかげで明雲天台座主比叡山に逃げ込む事が出来たのです。この事を知った後白河上皇はかなり激昂し、平重盛、宗盛を呼んで山門への攻撃を指示しました。コレには神仏を恐れない平重盛も驚きました。重盛は親であり頭領である平清盛公に相談し、コレは大変だと清盛公自ら上皇と談判致しましたが、後白河上皇の決意は変わらず、結局攻撃する事となったのです。コレが行われていたら信長公の前に前例が出来てましたね。

此の後に事態は急展開致します。

出撃前の夜に平清盛の西八条にある屋敷を多田行綱(源氏)が密かに訪れたのです。多田行綱天台座主を陥れた藤原師光等が鹿ヶ谷で平氏打倒の謀議を行っており、其処に後白河上皇も絡んでいた事を密告したのです。多田行綱は此の騒動で万が一にも平家打倒の企みが露見する事を恐れたからのだと思います。行綱は武家ですので公家である近臣達と違って冷静に武力の差を推し量る事は常の内です。もし事が露見したら間違いなく自分も殺されるのです。とてもじゃないが延暦寺に攻め入る様な悪鬼の平家には敵わないと思ったと思われます。

清盛公屋敷跡 京都市歴史資料館 情報提供システムより
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その話を聞いた清盛公の『な〜〜んだと〜〜❗️』と怒り狂った言葉が容易に連想されますね! 多田行綱後白河院に見出され院の警護をする北面武士に加えられておりました。当然ですが院の近臣達と交わりが有り、平家打倒の密儀に参加して平家打倒軍の大将的な存在でした。

さあ大変です!
清盛公は延暦寺攻撃を即刻中止し、更なる武者の動員を掛けました。あっと言う間に多くの味方が集結しました。清盛公はまず密儀の中心的な存在である藤原師光(西光)を捕縛し、拷問にかけて洗いざらい吐かせた後に斬首しました。師光の自供により参加者の全てが判明し処断されました。ただ後白河上皇の近臣である藤原成親平重盛の助命嘆願により流刑と成りました。ただ重盛の嘆願により流刑となった藤原成親流刑地で暗殺されてしまったと言われております。

この事件で清盛公は邪魔な西光(藤原師光)と成親をやっつける事に成功したのですが、後白河上皇には手を出さずにおりました。後白河上皇自体も知らぬ存ぜぬでシラを切ったと伝わります。清盛公の嫡子である常に沈着冷静な平重盛は部下が神輿に矢を射た事と助命嘆願した藤原成親が暗殺されてしまうなど上手く行かない事続きで失意の中で左大将の位を返上しました。コレで平家の跡取りは宗盛となったのです。

平宗盛 wikiより
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もう清盛公と後白河上皇の関係は破局しておりますが表向きは何もなく過ごしておりました。しばらくして清盛公の娘である徳子(建礼門院)が高倉天皇と結ばれ皇子が生まれました。清盛公は後白河上皇に皇子を皇太子にする事を強行に迫りました。後白河上皇は前回の負い目も有ったのか分かりませんが、此れを認めて親王宣旨を行いました。

建礼門院 wikiより
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清盛公は皇子の近臣から旧勢力である院の近臣を全て除外して平家で硬めました。コレは後白河上皇の逆鱗に触れたのでした。また藤原氏の一族と結婚した平家の女性については、主人が他界した後に藤原氏が代々治めて来た知行国を相続させるなど平家の勢いは止まりませんでした。


コレに対して後白河院も黙ってはおりません。しばらくして清盛公の嫡男である平重盛が他界すると、後白河上皇は近臣を国司として送り、平重盛の所領だった土地を速攻で奪ってしまったのです。左大将の位を返上し表舞台に顔を出さなかった平重盛でしたが、清盛公は可愛い息子が亡くなっただけでも辛いのに、息子の領地を没収するとは何事だ〜と怒り狂ったのです。正直言ってもう清盛公は閻魔様状態だったと思います。清盛公も英雄でありながら人の親だったのです。

※ 治承三年の政変

治承3年(1179年)11月14日にとうとう平清盛公は数千の武者を引き連れ福原(神戸)から攻め上りました。清盛公の強行姿勢に驚いた後白河上皇は使者を送り穏便に済まそうとしますが、済ました後の騙し打ちは後白河上皇の常套手段なので、清盛公は其の手を食いませんでした。清盛公は高倉天皇をバックに院の近臣をバンバン解任し、平家側の人員を要職に付けて行きました。オマケに後白河上皇は清盛公の指示で鳥羽殿という建物に幽閉されてしまったのです。オマケに高倉天皇に退位をせまり、孫の安徳天皇を測位させてしまいました。

安徳天皇 wikiより
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一連の仕置きを終えた清盛公は宗盛に後の事を任せて福原に引き上げました。その後の手加減を知らない宗盛の対応は苛烈でした。院の近臣を捕縛したり殺害したりして、所領を奪うなど続け様に相手の勢力を根底から叩き潰したのです。此れに伴い後白河上皇の第三皇子である以仁王も所領を没収されたのです。この後に以仁王は平家追討の令旨を出す事になります。しかし以仁王を擁立しようと画策したのは源氏の裏切り者である源頼政でした。

源頼政は長年の功が平家から認められて従三位まで上り詰めていましたが、嫡子である仲綱の名馬『木の下』を平家の嫡子である宗盛が所望し、木の下が宗盛邸に入ると宗盛は仲綱という焼印を木の下に押し当てて酷い仕打ちを行いました。現在で言う動物虐待と言う生易しいものではございません! 当時軍馬はとても重要な存在であり、特に名馬となると所有しているだけで武門の誉れだったのです。其の誉に焼印を押されて笑いモノにされたとなると堪え難い恥辱でした。

余りの横暴な宗盛の態度に頼政の長年の平家に対する我慢が爆発したのです。策略家の源頼政以仁王に全国の源氏に蜂起を促す様に説得しました。以仁王頼政の説得に応じて令旨を出したのでした。


最後までお付き合い下さり有難うございました。


コレで公家や朝廷がドウノコウノはしばらく有りません。いよいよ平家追討の令旨が全国に渡ります。もちろん木曽にも令旨は到着するのです。その前に中原兼遠公が様々な準備の為に動いておりました❗️

次に続きます。


追記
主題が義仲公である為に、どうしても清盛公が敵方として記述しておりますが、真実は本当に立派な方だったと私の恩師が教えてくれました。産みの母は祇園女御(ぎおんにょうご)の娘さんだと言う方であると伝わっております。祇園女御白河法皇が晩年に寵愛した女性です。ほんと白河法皇は困ったさんですね。つまり正室の子では無いのです。もしかすると白河法皇の隠し胤と言う話もございます。父である平忠盛は朝廷の警護役であり、警護役の子供が太政大臣になるなんて異例にも程があるのです。そんな理由から清盛公はお母さんの愛情は受けてない幼少期を過ごしました。父は伊勢平氏頭領の平忠盛公でしたので色々な苦労をした方なのです。源氏の頼朝公の生い立ちは比較的に色々な書籍にございますが、清盛公の登場は通常だと平治の乱の少し前からと成り、出自についてはあまり詳細に書いてある文献が無い為に此処でで追記致しました。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 『番外編』

裏切り者であるのが?
大勢が見えた英邁であるのか?
明らかに天からの役割を持っていた漢
源三位源頼政の事を
どうして書きたくて.....

皆様は私の稚拙な文中に出て来た源頼政について、どう思われましたか? 私の記述が下手で悪者になっちゃっているかも知れません。実際にどうだったかは個人の感覚によるところですが、この時代は裏切りと言っても、其れは一家を滅ぼさない為の大事な選択だったのです。信州ですと表裏卑怯と言われた真田昌幸が散々周囲を裏切りまくった挙句に親子が敵味方に別れて戦って家名を残しました。武田信玄は同じ新羅三郎義光を祖とする同族を次々と滅ぼし蹂躙して英雄に成りました。当時における武家の頭領が真っ先に考える事は自分の一族の安泰だったのです。


源頼政は保元.平治の乱では優れた先見性で勝利者側についておりました。平治の乱では結果として同族を裏切った形です。しかし源頼政が最終的に以仁王を口説いて平家追討の令旨を出させた事でその後に源氏側が勝利したのです。頼政は77歳にして最後に源氏の為に動き、戦って見事に討ち死にを遂げました。

頼政の出自を少しご案内しますが、八幡太郎義家公から継続する河内源氏嫡流源義朝でした。其れに対して頼政摂津源氏です。弓馬の道と言うよりは風雅な都人と言う感じの一族なのです。河内より摂津の方が今日の都に近い為だったかも知れません。実際に摂津源氏は有名な藤原道長の時代から摂関家に一族の女性を送って婚姻関係を結んでおりました。ところが公家化した摂津源氏でも頼政だけは武張った場面と歌人としての雅な一面をあわせ持った不思議な武人だったのです。

源頼政 wikiより
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源頼政と言えば真っ先に出てくる伝説が鵺退治(ぬえたいじ)です。平安時代近衛天皇が夜になると突然苦しみ出すと言う凶事が起こり、公卿達は原因を探っておりました。高僧に祈祷をあげさせたのですが、天皇の苦しみは続いておりました。やがて判明した原因は天皇が居る東三条殿の屋根に丑の刻になると黒雲が巻き、黒雲の中で鵺(ぬえ)が吠えていると言う内容でした。そこで鵺退治に選ばれたの武人は、弓の名人である源頼政だったのです。頼政の弓は『雷上動』と言う名弓であり、頼政から遡る事四代前の源頼光から伝わる家宝でした。また『水破』と『兵破』と言う矢も同じく伝わっております。二つの矢は文殊菩薩の瞳から作ったと伝わる矢であり、『水破』は矢羽に黒鷲の羽を用いていおり、『兵破』は山鳥の羽を矢羽に使っていたとの事です。源頼政が家伝の名弓と文殊菩薩の化身と言われている矢を放って見事に鵺を射抜いたと伝わります。 
 
鵺 wikiより
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近衛天皇は大いに喜び、頼政に『獅子王』という宝刀を授けました。コレは現在でも残っており、歴史を具現化した名刀として語り継がれております。源頼政は鵺退治は二度行いました。もう一回は二条天皇の時ですが、この時も見事に鵺を仕留めたと言われております。

獅子王  wikiより
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大和伝の名刀である獅子王は日本の重要文化財です。現在は上野の国立博物館に所蔵されてます。無名の太刀ですが、元々神社仏閣に納める刀剣や身分の高い人に献上する刀剣には銘を切らないのが慣例でした。因みに刀剣の茎(なかご)に銘を切るようになったのは701年の大宝律令で定められたからだと言われております。

黒漆太刀拵え 此方も重要文化財です
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和鐵で鍛え上げた太刀は千年を超えて残りますが、木材と漆で出来ている弓は経年には勝てずに残っていないのが残念です。因みに神社に奉納した大鎧などは緒や革紐などを修復をして現在まで国宝や重要文化財として伝わっている名品もございます。またこの時代の兜は鉄の板を鋲で止めて何枚も重ねて強度を上げる構造になっており、鋲を『星』と表現して星兜と言います。現在ジェット戦闘機などの圧力隔壁は、何と此の構造と同じ造りなのであります。日本人の叡智の凄まじさが伝わる事例のひとつでね!

星兜 『信濃の甲冑と刀剣』より
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ジェット機の後部に位置する圧力隔壁 wikiより
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この位置にあります。
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また頼政歌人としても有名でした。まず自撰と言われる『源三位頼政集』がごさいます。鴨長明にも『今の世には頼政こそいみじき上手なれ』と称賛されております。鴨長明下鴨神社禰宜さんの子として生まれ、若くして古今の和歌に精通し、優れた和歌を多く創り出し、和歌所寄人と言う官職に選出された大家です。

多くの合戦に武人として活躍し、歌人としての地位も合わせ持ち従三位に叙せられただ程の頼政が何故に無謀とも言える合戦に挑んだのか? 平家の知盛や重衡の大軍勢と戦ったのは何か隠し球が有ったのか? 最後は先祖の威徳を考えて行動に出たのか? 色々な歴史学者が自説を述べておりますが想像の域を脱っしません。

下記は自害の前に詠んだ歌です。

『埋れ木の 花咲くこともなかりしに
身のなる果は哀れなりけり』

意味
年老いて既に埋れ木のような自分は、此処から花の咲く様な嬉しい事など有るはずも無かった 其れなのに自分が兵をあげて、このような結果になってしまった事が今から思うと悲しい。

客観的に歴史の事実だけで言うと、源頼政が行動を起こさなかったら木曽にも令旨なんて絶対に届かず、頼朝公も政子と結婚はしたかも知れませんが、平家に合戦を挑むなんざ絶対に無かったと思います。そう考えると裏切りも含めて源頼政は天命を持って生まれて来た事に成りますね。上の歌も、私の稚拙な意味の解説も含めて、源氏の血脈が成せる技とでも申しましょうか、無意識のもとに天命を全うし、結果として敗れたようにも捉えられます。


番外編にお付き合い頂き
有難うございました。

次に続きます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 4

まず大きな流れですが、平安時代の真ん中から藤原氏による摂関政治から院政に移り変わりました。摂関家は代々源氏と結び付きが強い傾向です。対して平家は上皇が住んでいる場所(院)の護衛をずっと担当してました。たまたまかも知れませんが、院政下では平家が近い分だけでも断然有利だったのです。

前回の保元の乱後半戦に出てきた藤原南家出身(注1)の天才『信西』は後白河上皇に見出されて大きな権力を持つ存在となってました。信西薬子の変(くすこのへん 810年)以来行われてなかった私刑を復活させ、源為義など背いた側の武将を死罪と致しました。また摂関家の弱体を図り、政治を推し進めて行く過程で自分の息子達を要職に付けたのです(今も昔もコレをやると組織化が弱体化しますね)。

平清盛公 wikiより
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冒頭にも表記した様に時代は院政政治(注2)が最高潮の時なので摂関家は弱体化したのです。当然ですが弱っちく成り下がった摂関家についていた源氏は色々冷遇されました。そんな背景下で起こった保元の乱だったので論功行賞として後白河天皇側に着いた源氏の武将に恩賞はとっても薄く、平清盛などに対する恩賞とは比べ物に成りませんでした。そんな事も有って義朝公と義平公は大いに不満を持っており、其の矛先は全てを取り仕切っている信西だだ1人に向けられていたのです。

二条天皇 wikiより
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後白河天皇保元の乱が終わると息子の守仁親王皇位を渡します。守仁親王二条天皇となり、後白河天皇後白河上皇に成りました。当時の後白河上皇は能力的に少し残念なところが有ったみたいで実質は信西が実権を握っていたのです。源氏一族も信西を憎んでましたが、藤原信頼を筆頭に藤原北家も何で格下の藤原南家出身の奴輩が権力持つんだ〜って怒っておりました。共通の敵を持つ者同士は何時の時代も現代の野党の様に結び付きます。此の場面では摂関家藤原信頼と低い恩賞などの不当な待遇に不満を持つ源義朝公父子が結託致しました。

熊野那智大社 wikiより
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しばらくして藤原信頼は平家の頭領である平清盛公がもうじき熊野詣に行くと言う情報を仕入れました。此処は番犬の居ないうちに『信西』をやっつけるチャンスです。此処が大事なところなのですが、実際にやっつけたいのは憎っくき『信西』一人だったのです。

そこで清盛公が熊野詣に出発したのを見計らって信頼と源氏頭領親子は挙兵致しました。襲うのは上皇の住まいで有る東三条殿です。藤原信頼後白河上皇上皇の姉を確保し軟禁致しました。東三条殿に居た他の者は容赦なく首を刎ねられたと伝わります。しかし肝心の信西は既に逃亡した後でした! しかしその後の探索でまず信西の息子が捕縛されました。信西本人は山城国田原という場所にに逃れて土に穴を掘って木箱の中に隠れておりましたが、追手に見つかり土を掘り返す音を聞いて木箱の中で自刃したと伝わります。信西の首は京都に持ち帰られ都大路に晒されました。

目的を果たした信頼は義朝公を播磨守に任じました。息子の義平公は東国よりの大軍を引き連れておりましたので、平清盛公の帰路を待ち伏せて討ち取る事を進言しましたが、藤原信頼は之を受け入れませんでした。この藤原信頼が下した判断の少しの甘さが後の明暗を物凄く大きく分けます! 藤原信頼が百戦錬磨である義平公の進言を受け入れなかった理由は、信頼の嫡子信親が清盛公縁の娘と婚姻関係にあったので、まさか争いにはならないだろうと考えたからです。この感覚のズレが貴族の考えと武家の習いの違いでした。藤原家の貴族は天皇外戚となって力を握る事が目的、武家の目的はあくまでも何処までも御家の繁栄なのです。

清盛公は熊野詣の途中の紀伊国で都の異変を知りました。途中で熊野別当などの軍を味方につけ、本拠地の伊勢から仲間を引き入れ大軍となって都に戻ったのです。それに対して源氏は信西を討ち取るだけを目的とした人員でしたので、合戦に及ぶ事までは想定しておりませんでした。此処からが清盛公の真骨頂です。まず藤原信頼の嫡子である信親を返しました。この事により一度は信頼に恭順の意を示した清盛公ですが、そんなに世の中は上手く回りません。

六波羅 現在の郷土史東山区 Wikiより
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六波羅に戻った平清盛はある戦略を練ります。天皇上皇は敵方におわしますので、その敵を攻めると朝敵となってしまうのです。まず二条天皇を信頼側から取り戻す為、二条天皇に女装して内裏を脱出する事を冠者を使ってすすめます。同時進行で後白河上皇にも内裏を離れてもらう戦略でした。今から思うと『え?そんな事なの〜?』って感じの戦略ですが、此の戦略は見事に成功したのです。後白河上皇は無事に仁和寺に逃げ込み、二条天皇も見事に女装して六波羅に匿う事に成功致したのです。女装って事ですが、ハリウッドの特殊メイクも無い時代だけに不思議です。そんな感じなら合戦で負け時にみんな女装して逃げれますね。

仁和寺 wikiより 金堂は国宝です。
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こうなると数に勝る平家は断然有利です。実際あっという間に内裏を奪回してしまうのです。内裏を脱出した源義朝軍は六条河原で最後の決戦に挑みますが、同じ源氏の源頼政が裏切った事により負けてしまいました。藤原信頼は降伏しましたが斬首され、義朝公は主従で東国を目指し敗走致しました。ところが落ちる最中に源義朝公は愛知県知多郡美浜町野間で部下の裏切りに遭って最後を遂げます。別の道を落ちのびていた義平公は、父が打たれた事を知り、仇を討つべく都に戻りますが、平家方に捕縛され斬首されてしまいました。これで源氏は壊滅状態となり、残った源氏一族は散り散りになりました。敗走中の父とはぐれてしまった頼朝公も捕縛されてしまいました(後に伊豆の蛭ヶ小島に流され、政子と出会います)。

この後は平家が日宋貿易(南宋)で巨万の富を築いて朝廷に入り込み、『平氏にあらずんば人にあらず』とまで言われる程の繁栄を築いた事はご存知の通りです。モバイル通信機器がない時代だけに、人の心の移り変わりと貴族と武家の文化の些細な違い違いが後の運命を大きく分けて日本の歴史が動いて行ったのです。  

蛭ヶ小島に流された頼朝公は渚に座り海を見ていたと多くの文献に表現されております。恐らくは父や叔父など身内が如何に生きて如何に死んだのか? 何故に朝廷の官職という甘い蜜を求めて覇権を争ってのか?波の音を聞きながら沈思黙考していたと思われます。此の沈思黙考の時間が後の天才政治家の根っこなのです。出した答えは面倒くさい朝廷とは別の武家だけの政権でした。

因みに鎌倉幕府は頼朝公の一族が三代で滅んだ後に北条一族が取り仕切った事は周知の事だと思います。偉大なNo.2であった執権北條氏は清盛公が行っていた南宋との関係を引き継ぎ、高僧を日本に招いております。ところが超軍事大国のモンゴルが南宋と戦う事になりました。モンゴル帝国は日本に使者を何度も送りました。ところが時の執権北条時宗南宋から招いた無学祖元禅師の話を鵜呑みにし、モンゴル帝國からの使者を無視し続けることを繰り返し、やがては使者を切り捨てました。その事がフビライハーンを怒らせた経緯がこざいます。その事と合わせてベニスの商人であるマルコボーロが黄金の国ジパングは『木に黄金が実っている』などとフビライハーンを焚き付けたのです。モンゴル帝国南宋をやっつけた後で矛先を日本に向け、我々が知っている蒙古襲来となったのです。コレは当時は朝鮮半島までがモンゴル帝国支配下になった事に起因しております。蒙古襲来までは神功皇后三韓征伐のおかげで史上最強の軍隊を誇る隋も日本には来れなかったのです。神功皇后は正に日本を救った女神さまでした。(義仲公には関係ない話はでした)

次回はいよいよ後白河上皇平清盛公が喧嘩して院政が終わりを告げます。所領を平家に奪われた以仁王により平家追討の令旨が出た経緯をご案内します。


最後までお読み頂き、有難うございました。



以下は文中の『注』の解説
注1 藤原家
名門である藤原家は四つに分けられておりました。まず摂関職を輩出する藤原北家が有って、その他が南家、式家、京家です。南家の始祖は藤原不比等の嫡男である藤原武智麻呂、式家の始祖は藤原不比等の三男である藤原宇合、京家は藤原不比等の四男である藤原麻呂が始祖です。つまり全部の家が藤原不比等の子供なのです。ご存知の様に藤原不比等大化の改新の中心人物である中臣鎌足の次男です。文武天皇の時代に不比等の子供だけが藤原姓を名乗る事が許されました。後の兄弟は中臣姓となり、ハッキリと区別されちゃいました! 藤原不比等天武天皇が制定した大宝律令の編纂に関わった方です。名前自体が等しく比べちゃダメ(不)って凄いな〜って昔から思ってました。


注2
前回も少し説明しましたが、追加としてご案内します。藤原氏摂関政治天皇が国家最高の権威として存在し、摂政や関白などが政務を行っておりました。院政に於いては院の下に『院庁』という役所が存在し、上皇から選ばれた近臣達が運営しておりました。近臣達により決められた定めは上皇が承認します。そして天皇院宣というかたちで指示します。天皇は言われるがままと迄は言いませんが、酷い言い方をするとオカザリ的に成っておりました。此れを強制的に終わらせたのが平清盛公なのです。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 3

今回から源氏と平家が歴史の表舞台に立つキッカケとなった保元.平治の乱のご案内となります。言うなれば源氏と平氏が朝廷や公家の争いの実働部隊としての地位から武家政権への移行となる過程で起きた局地的な合戦です。ただ其の過程の中で多くの血が流れました。

この争いは京の都の話で有り、遠く離れた木曽に暮らす駒王丸は中原兼遠公の元で確り養育されておりました。後の『義仲四天王』となる兼遠公次男の樋口次郎兼光、四男の今井四郎兼平、巴等と木曽の大自然の中を駆け巡り、兼遠公の指示により名門の血脈に恥じない学問と武芸を身に付けておりました。前回までは武家から見た情勢をご案内しましたが、今から案内する『保元の乱』は宮中の問題が根本なので、武家から一転して宮中の話となります。

樋口次郎兼光  兼遠公の次男 四天王一の英邁で、木曽が育んだ知将です。
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今井四郎兼平  兼遠公の四男 この武将は義仲公に最後まで忠節を尽くしました。まさしく木曽が育んだ平安期の益荒男です。
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保元の乱 1156年7月
この期間に歴史の渦は大きくうねりました。都では嫡子の義賢公を失った源為義公と義朝公&義平高親子の関係は最悪となり、更に朝廷にも深刻な相続争いが起こりました。簡略化しない迄も出来るだけ端的にご案内致します。

白河天皇 全てこの方が原因を御創りになられました。全く勘弁してほしいモノです。
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白河天皇は息子の堀川天皇の頃に政治の実権を握って院政を始め、堀川天皇の後である孫の鳥羽天皇の頃を過ぎても実権を握ったままでした。とても非礼な言い方ですが此の白河上皇がやってしまったのです。鳥羽天皇の次の天皇崇徳天皇です。一応ですが崇徳天皇鳥羽天皇中宮(奥さんの事)である藤原璋子(待賢門院)との間に生まれた第一皇子とされております。ところが崇徳天皇鳥羽天皇の父である白河法皇鳥羽天皇中宮である藤原璋子の間で現代で言う不倫をして生まれた子供だったのです。端的に表現すると孫の奥さんと不倫してた事になります。全ての権力を持つ白河上皇が存命の時は鳥羽天皇も思いは有ったでしょうけど、崇徳天皇に対して普通に対応しておりました。ところが白河上皇崩御した後は自分の子供でない崇徳天皇に冷たく当たり出したのです(キモチハワカリマス)。

絶世の美女で魔性の女性?
待賢門院(藤原璋子) wikiより
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それでも崇徳天皇は保安4年には天子の位を受け継ぎ、第75代天皇として即位致しました。ところが....ところが....崇徳天皇の運命がここで狂います。不仲なお父さんである鳥羽上皇がお爺さんの手が付いてない2人目の中宮(奥さん)の藤原得子(美福門院)との間に躰仁親王(後の近衛天皇)が生まれたのです。そこで自分の本当の子供である躰仁親王を即位させる為に崇徳天皇に退位を迫りました。
鳥羽天皇崇徳天皇に躰仁親王を養子にしたらどうか?と誘いました。この話は崇徳天皇にとっても良い話です。次期天皇の父という事は自分は上皇になれる事が約束されます。其処で崇徳天皇鳥羽上皇の提案を了承したのです。
ところが鳥羽上皇近衛天皇が即位する寸前に近衛天皇を『皇太子』では無く『皇太弟』としたのです。院政天皇の『父』が行うもので『兄』は行えないのです。明らかなだまし討ちでしたが崇徳院には対抗する手段は有りませんでした。酷いを超えた超陰険なイジメです! この事で崇徳天皇鳥羽上皇&近衛天皇と争う様になりました(アタリマエダワ)。

鳥羽天皇 wikiより
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話はソレますが藤原氏が行っていた摂関政治院政真っ盛りの中でも役職だけは健在でした。この頃は藤原忠実太政大臣です。しかし上皇の信頼は厚くありませんでした。そこで白河上皇は次男の藤原忠通を摂関の地位に付けました。藤原忠通には藤原頼長という弟がおります。此の2人の兄弟は其々に自分の娘を近衛天皇に近づけて結婚させます。ところが肝心の近衛天皇は後継が出来ないまま崩御してしまいました。次の候補は崇徳院の子である重仁親王鳥羽上皇の第四皇子である雅仁親王です。鳥羽天皇は当然嫌いな崇徳院の子ではなく、雅仁親王皇位に付けて後白河天皇としました。もう完全に崇徳院は意地悪されっぱねしで我慢の限界です。此処で突然に鳥羽上皇崩御してしまいました! 其れを契機に怒り心頭の崇徳院は武力を持って上皇の座を奪おうと行動を起こしたのです! 藤原家は摂関の地位を掛けて、朝廷は上皇の座をかけての争いが始まりました。後白河天皇藤原頼長平清盛公と源義朝&義平公が味方し、崇徳院側に着いたのが藤原忠通平忠正源為義源為朝でした。お互いの陣に其々の利害関係を持った武将が続々と詰めかけました。両陣営に集まった武将達は共に夜打ちを進言したそうです。
一方の後白河天皇側は夜打ちに賛成しました。実際に後白河天皇が賛成してのではなく、懐刀的な存在だった『信西』という藤原南家出身の貴族で僧侶だった知恵者が源義朝の夜討ちの策を採用したのです。此の信西は後の平治の乱の主要人物となります! 対して清廉潔白な崇徳院は夜打ちには反対しました。しかしコレが勝敗を分けてのです! 朝日が上がる頃には後白河天皇側の圧勝でした。此の戦いで藤原頼長は戦死して源為義等は斬首されました。これにより源氏内で敵が居なくなった義朝公と義平公親子は源氏の頭領の地位を確立したのです。崇徳院は投降しましたが網代車に乗せられて讃岐国へ配流となりました。その8年後に46歳で崩御されたとも、暗殺されたとも伝わります。強い恨みを抱いて崩御した崇徳院は怨霊となり、後白河上皇藤原忠通に近い人々を相次いで呪い殺したと伝わります。怨霊と化した崇徳院の話は後世にかなり着色された話も沢山ございますが、皇室を呪った事は間違い有りませんでした。

この内乱で皇室と摂関家の内紛に源氏と平氏が活躍した事は言うまでも有りませんが、此の戦いにより武士の政界進出が決定的になり、朝廷は武家に治安維持を委ねるしか道は無い状態となってしまいました。

源氏同士の喧嘩は義朝公と義平公が勝ちました。義朝父子は同じ同族を殺して勝利した事になります。です....が....『盛者必衰の理』の言葉通りで勝った義朝公と義平公も間も無く命を落とす事になるのです。


そんな都の情勢と反して、駒王丸は木曽谷で多感な青春の日々を送っておりました。駒王丸はおおよそ24年間木曽で過ごすのです。人体の約7割は水と言いますが、駒王丸の中の7割は木曽の大自然が創った水なのでした。



平治の乱に続きます!