みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

2020年 千曲川解禁 (個人的)

今年の初釣りは、仲間との打ち合わせて3月1日に標準を合わせておりましたが、堪え性の無い性格が顔を覗かせ、既に川開きしている千曲川に向かいました。土曜日に会社の研修が有り、三連休中日の出陣となりました。現地に向かう途中の道路に設置されている寒暖計は、通年の常識ではマイナス7°くらいですが、本日は0°でした。その代わり強風が吹き荒れる中での釣りとなりました。此れでは本流は無理と諦めて、支流に向かいました。
 
暗い内に現地に着き、初日恒例の解禁の儀式です。川の竜神様に御神酒とお塩をお供えし、皆で拝礼致しました。強風で盛り塩が山型に成らずに四苦八苦致しましたが、無事解禁の儀式が終わりました。その後は車中で直会(ナオライ)です。やがて夜が明けて明るくなりましたので着替えて出陣です。刺すような寒さでは有りませんが、強風で体感温度が下がり、オマケに放射冷却に攻められて解禁ならではの寒さです。

川は平水 とても美しい流れです
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餌を装着して第一投、仕掛けが馴染みますが、馴染むだけです。気を取り直してもう一度ポイントに入れますが音無の構え!
此処で今は二月である事を思い出し、水通しの良い深トロの沈み石に狙いを定めました。此れが大正解で、元気な天然イワナが顔を出してくれました。

ワイルドな初物です
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尾ビレが最高に美しく、思わず顔が綻びます
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まあまあの型が来ました
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此の子はよく引きました
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100m程で7匹釣れて4匹キープ致しました
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もう満足ですが、千曲川のヤマメの顔も見たくなりましたので、もうひと川釣ってみることに致しました。此の川も深トロを攻めた処、小気味良い引きで良い型のヤマメが釣れました。千曲川竜神様に心から感謝し、拝礼致しました。

初物のヤマメです
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お昼ご飯は帰り道とは逆方向ですが狙いの店に向かいました。此処の馬刺し定食は絶品です!

お気に入りの馬刺し定食 大盛りは迫力が有りますが、現在ダイエット中で有り、ご飯少な目です
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昨年10月の台風で大分荒れておりますが、千曲川の渓魚達は元気で有り、嬉しく思った次第です。

趣味に思う事

日本は山紫水明の国、美しい季節がその都度我々を迎えてくれますね! 更科にいた時は四季の移ろいは当たり前でしたが、今となれば貴重な経験でした。有り難い事に我々渓流釣り師は、季節により渓魚のいる場所や様々な自然を理解しなければ釣りに成りません。他の趣味と比べて季節をハッキリと感じる事が出来る事が長年継続出来ている理由のひとつかも知れません。
 
解禁時には雪の谷を釣る事もありますf:id:rcenci:20200216051742j:plain

春一番の晴れた渓流は静寂の中に水が岩場を流れ落ちる音が響き、とても美しい世界です。この時期は立木に葉が無いのでリスやキツネなどの小動物が出迎えてくれますよ。
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我が故郷の更科も今年は雪が降らずに極端な暖冬と母親の話です。更科と比べると暖かい町田市では梅の花が五分咲きで良い香りがしております。 梅の花は最初に咲く花であり、春の訪れを告げる可憐な美しい花だと思います。古くから日本人の文化に溶け込んでおり、刀装具など様々な物に用いられております。花は美しく、実は日本人の食生活に馴染んでる事を考慮すると、日本人にとってこれ程有益な樹木も少ないのではないかと考えます。そんな訳で話はガラッと変わりますが、梅の時期に我が家に飾る趣味の物をご紹介致します。

七宝旭光釉梅詰文花瓶 安藤七宝店
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蓋の箱書です
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30代の頃に友人の親の告別式で銀座に行き、帰りがけに一目惚れしてしまった七宝焼の花瓶です。その時は待ち合わせが不足し、手付金を支払って、残りは後日銀行振り込みを行い、品物は送付して貰いました。七宝焼は骨董商であった祖父が大事にしていたので昔から関心がありました。七宝の歴史はとても古く、日本には6〜7世紀頃に伝わったと言われております。しかし、七宝焼の技術が劇的に進化したのは1880年から1910年における30年間であり、進化を遂げた国は明治期の日本なのです。当時の日本は外貨獲得の為に海外向けに造られた物が多く、残念な事に当時の名品は殆ど海外のコレクターの元に有ります。この七宝花瓶は尾張名工、安藤重兵衛から130年続く安藤七宝店で制作された物です。私は現在50歳まで後1ヶ月ですが、此の花瓶を勢いで購入した30歳半ばよりは少しだけ思慮深くなったので恐らく今なら買いません! 

七宝赤透釉梅鶯文花瓶
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七宝焼にも様々な手法が存在いたしますが基本は有線七宝です。銀や銅などで下地を作り、下絵を施した上に細い銀線で輪郭を作り、輪郭の中に釉薬を差して焼成し、研磨を施して仕上げる手法です。七宝焼の色につきましては、明治期の職人の皆様が気の遠くなるような試行錯誤を繰り返し、様々な色を開発致しました。その中で現在でも難しく、最高難度の釉薬が『赤透』なのです。当時に於いて海外では最高級ルビーに送られる称号である『ビジョンブラッド』に勝るとも劣らないと評価されたと伝わります。 

下地に彫られた竹の葉が確認できます
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七宝焼もそうですが、明治期の日本は本当に凄かったと思います。昨今の『我良し』の精神では絶対に出来ない事ばかりであり、日本という『公→おおやけ』の為に同じ方向に向かい、軍人も職人も商人も志を一つにしたのだと思います。此の七宝焼の分野に致しましても紀元前14世紀のツタンカーメン王の黄金マスクに使われた七宝から数千年間の頂点を明治期の日本人職人が極めた事になりますね。七宝焼に留まらず、優れた日本文化はもっと国内でスポットライトを浴びさせるべきだと思います。

戦艦三笠

戦艦三笠です 現在は記念艦三笠f:id:rcenci:20200209072904j:plainf:id:rcenci:20200209081040j:plain

日本の命運を左右した大戦であった日本海海戦において大活躍致しました。帝国海軍がイギリスヴィッカー社に発注し製造された当時最新鋭の戦艦でした。ロシア旅順艦隊と黄海海戦に望み、敵砲撃を20発も船体に受けました。その後日本の命運を決める日本海海戦において当時世界最強のロシアバルチック艦隊を撃破した事は有名です。当時の艦長は薩摩の名門伊地知家の伊地知彦次郎であり、同じく薩摩の東郷平八郎司令長官が海軍きっての秀才である秋山真之が立案した丁字戦法を用いて海戦史上稀に見る大勝利を治めたのです。当時参謀であった秋山真之は『坂の上の雲』の主人公として登場した帝国海軍の軍人です。兄は秋山好古で有り、日本における騎兵の父と称され、最強軍団であるコサック騎兵団と戦った帝国陸軍の英雄です。話は戻りますが、戦艦三笠は其の後に様々な悲運に見舞われました。現在は歴史の証として横須賀に記念艦と成って残されております。

三笠の左舷f:id:rcenci:20200209074220j:plain 
三笠の主砲f:id:rcenci:20200209074244j:plain

三笠の主砲の砲弾 最大射程は10kmと明記されておりましたf:id:rcenci:20200209074724j:plain

黄海海戦で敵弾を受け大破した手砲の一部です
此れだけの厚さを破壊する威力だったのですね!f:id:rcenci:20200209074706j:plain


知らない人も多いと思われますので少しだけ戦後の三笠について綴ります。戦後に於いて日本はご存知の様に連合国軍の管理下に置かれておりました。ソ連のクズマ.テレビヤンコ中将により日本軍の武装解除方針に基づいて戦艦三笠も解体と成りかけましたが、反共産主義であった米国陸軍少将の猛反対を受けて解体を免れました。その後の戦艦三笠は鋼材目当ての泥棒や進駐軍に船体を剥がされたりしてボロボロになりました。そんな中で英雄東郷平八郎元帥を敬愛していたチェスター.二ミッツ元師が、荒廃した三笠の惨状を知って激怒し、海軍兵士を見張りに立たせて此れを守りました。然し二ミッツ元帥も任を離れると三笠の艦内に米軍がダンスホールなどの娯楽施設を造ったり、歴史の生き証である戦艦三笠はその姿を大きく変えて行きました。其れをイギリス人であるジョン.ルーピンが新聞に投書すると大きな話題となりました。此れを知った二ミッツ元帥が米国海軍に働きかけて廃艦を日本に寄贈させ、廃材としての代金を三笠復興に充てさせたり、個人の資金を寄付したり致しました。また二ミッツ元帥は空襲で全焼した東郷神社の為に自署の売り上げの一部を東郷神社奉賛会に寄付致しました。此れを契機に三笠の保存運動が盛り上がりを見せました。やがて重たい腰を上げた政府により多額の予算が承認されて三笠は復元されました。米軍が持ち去った船体の部品はほぼ全てが返却され、運良くチリ海軍に納入されていた同型の戦艦が同時期に現役を退き、チリ政府から船体部品が寄贈されました。以上かなり経緯を簡略化した説明で諸先輩よりお叱りを受けそうですが、こうして三笠は奇跡的に復活したのです! 現在は博物館として広く一般に開放されております。

船体横に設置されている大砲の砲弾を詰めている様子が再現されておりますf:id:rcenci:20200209074804j:plain

通信室では通信兵が働いている様子が見て取れますf:id:rcenci:20200209074837j:plain

秋山真之の写真 f:id:rcenci:20200209074914j:plain愛媛県松山市の士族の家に生まれて軍人を志ます。兄の秋山好古は陸軍、本人は海軍を選びました。『智謀沸くが如し』と言われた努力の人であり、入院中に村上水軍の戦法を研究し、近代戦法へと転用した『丁字戦法』で日本を勝利に導いた人物です。

戦艦三笠内にある会議室 秋山参謀や東郷平八郎司令官が会議をしていたと思うと胸が熱くなりますf:id:rcenci:20200209074946j:plain

チェスター.二ミッツ元帥(ウィキより)f:id:rcenci:20200209075024j:plain
同じテキサス出身のプロレスラーである『鉄の爪』フリッツフォン.エリックとダブります

米国海軍チェスター.二ミッツ元帥は明治38年日本海海戦の勝利祝賀会において東京湾に停泊していた戦艦オハイオに招待状が届けられて事で祝勝会に参加致しました。参加した二ミッツ氏は東郷平八郎総司令官の飾らぬ気さくさに深い感銘を受け、生涯敬愛し続けたのです。其の二ミッツ元帥が後の太平洋戦争においてアメリカ太平洋艦隊を司令官として率い、日本と戦う事になろうとは、なんと皮肉な運命の悪戯でしょうか! 太平洋戦争では多くの日本国民の尊い命が奪われ、私の身内もレイテ沖海戦航空母艦千代田の志願兵として乗艦し、フィリピン沖に沈み、現在は靖国神社に英霊として祀られております。今後二度と同じ様な悲劇を繰り返さない為にも『戦艦三笠』は様々な教訓を我々に現在においても雄弁に語っております。 

アジアの小国である日本が世界の大国であるロシアに勝利した事は全アジアにとっても大きなインパクトと成り、欧州列強によるアジア諸国植民地化からの独立に大きく貢献致しました。インドの独立闘争を指揮した初代首相ネルーは『日本は勝ち大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利はアジア全ての国々に大きな影響を与えた』と日本の勝利に血が逆流する程感動し身震いしたと言われております。中国建国の父と称される孫文は『これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジア民族は極めて大きな希望を抱くに至った』と述べております。現在のアジア諸国の大躍進のキッカケは日本海海戦の勝利であり、その前に行われた旅順要塞攻略戦による多大な犠牲を始め、日露戦争尊い命を亡くされた数多の英霊と大黒柱を失った家族の艱難辛苦を背景に成された事であります。それ程の大きな事を為し得た戦艦三笠に改めて赤心より拝礼致しました。

余談とはなりますが、、、
私の叔父がフィリピンのレイテ沖海戦で乗艦した水上機母艦千代田の模型を三笠艦内で発見しました  f:id:rcenci:20200209075049j:plain正直に言いますと初めて見ました! 叔父ちゃんゴメンなさい!

横山党縁の神社 八幡八雲神社

我が家近くの相原の信号ですf:id:rcenci:20200201120919j:plain

私の住んでいる町田市相原町は古い呼び方を栗飯原と言います。全く同じ読み方ですが字が全く違いますね! 町田市相原町に家を建て19年に成りますが、周辺の歴史について少し綴ります。住う地域の歴史を知る事は現在其処に住む事に対し、土地の祖霊への畏怖と感謝につながり、郷土愛を育む礎となると私は考えております。

相原の地名の元となる栗飯原氏は平安時代の武蔵七党最大である横山党の一派です。現在の八王子市槍水の御殿峠に栗飯原氏の居館が存在していたと伝わります。お城を建てる場所は、まず水の手の確保が必要であった事は大南公の千早城籠城でも有名な事ですが、御殿峠を擁する八王子市槍水の地は山に節を抜いた竹を突き刺すだけで水が出て来た事から『槍水』と言われていたと地元の古老から聞きいた事が有ります。武家の居館とするには周囲を見渡せる丘陵を利用した立地と合わせて好条件だったと考えます。然し....その栗飯原氏も鎌倉時代初期の有力御家人である幕府侍所別当.和田義盛が執権北条氏の謀略により反旗を翻した建暦3年(1213年)5月の和田合戦に於いて当主栗飯原朝秀と3人の子が武運拙く討たれてしまい滅亡致しました。栗飯原氏は横山党野部(横浜線矢部駅周辺を所領)氏の一族と伝わります。横山党本体も和田合戦に於いて壊滅的な被害を出しました。
 
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武蔵七党最大勢力の横山党は和田合戦に対し義を通す為に一族あげて与しました。和田合戦初戦は和田義盛率いる和田氏と同族である三浦義村の軍が将軍御所を攻める段取りでしたが、三浦義村の直前の寝返りにより、和田一族は人数的に不利のまま将軍御所襲撃に及び、前半戦は押したものの、時間の経過と共に増える幕府軍の前に力を削がれ、多くの猛者が討ち死にし、由比ヶ浜まで退却致しました。此処で縁戚関係にある横山党三千騎が義に従い駆けつけて和田氏は勢いを取り戻しました。其処で再度幕府軍と戦いましたが、幕府側に寝返る武将も多く現れて敗色の色が濃くなり、やがて名門和田一族は討ち取られました。横山党も多くの武将が討たれて敗走致しました。結局は此の合戦で横山党は大きく勢力を削がれてしまい、実質表舞台から名を消してしまきました。
横山党についてもう少し触れますと、横山党は同族が七十家に及ぶ武蔵七党中最大の勢力です。武蔵國多摩郡横山庄(今の八王子市横山町)に拠点を置いて、埼玉県の奥から神奈川県の海側まで広く勢力を持ってました。横山氏の出自としましては第5代孝昭天皇の皇子である天足彦國押人命の子孫であり、有名な小野小町小野篁と孫の小野道風などを輩出した小野一族です。武蔵国国司として派遣された小野隆泰が石清水八幡宮を此の地に勧進し、現在も八王子市横山町に八幡八雲神社として地域の厚い崇敬を集めております。多摩郡の横山庄は当時において名馬の産地として広く知られており、やがて勅使牧(国が経営する牧)となりました。その勅使牧の長に一族の小野義孝が任ぜられ、名を横山と改めて此の地を治めました。此の事が横山義孝か横山党の祖と成った経緯です 。

八幡八雲神社拝殿 街中に鎮座されておりますf:id:rcenci:20200201121002j:plain

東京都教育委員会による説明書きf:id:rcenci:20200201121021j:plain

横山義孝公を祀る横山神社 空気が引き締まった様な気高い雰囲気がございましたf:id:rcenci:20200201121101j:plainf:id:rcenci:20200201121125j:plain

小野一族は清和源氏と深い結び付きが有り、源氏の嫡子誕生日には『引目、鳴弦の神事』を行っておりました。嫡子の前で弓を引く事になるので、源氏と小野氏は相当に強い間柄であったと思われます。また義孝の孫である経兼は奥州で勃発した清原氏安倍氏の争いである『前九年の役』で先陣をつとめて、見事敵将安倍貞任の首級をあげました。またその子孫は保元.平治の乱、一ノ谷、屋島、壇ノ浦など歴史を代表する合戦のほとんど全て参戦し、世の中の平穏な為に殉じました。横山時重の妹は頼朝公の命の恩人で鎌倉幕府重鎮である梶原景時の御母堂です。同じく時重の娘は鎌倉幕府侍所別当和田義盛の妻です。先の文中での説明の通り和田合戦で多くの横山党武士が討たれましたが中には後世まで名を残した一門もおります。日本国最大の地主と称された豪商酒田本間家は『本間さまには及びもせぬが、せめて成りたや殿様に』と言われた程の栄華を誇りました。昭和22年に行われた農地改革で地主制度が解体されましたが、酒田本間家は横山党の海老名氏流の本間一族末裔として多いにその名を世の中に知らしめました。横山党は一族の数が多く、とても此の欄のみで治るものではございません。現在でも私の渓流釣りシーズンオフにおける研究テーマの一つです。また折あるごとにご紹介致します。

現在でも八幡様八雲神社が鎮座する場所は横山町と言います。f:id:rcenci:20200201121220j:plain

犬の散歩と歴史探索

我が家の愚息であるヤマトです。f:id:rcenci:20200126144827j:plain男の子で去勢手術をしておらず柴犬なのに現在体重15.4kgの立派な体格をしており、掛り付け動物病院の先生は少しビビっております。私には何か有っても従順でありますが、散歩時に他の犬と対面すると牙を剥き出して威嚇致します。そんな時は口の中に手を突っ込みますと、何時もの柔和なヤマトの表情となります。先生は噛み付いたりしませんか? と聞いてまいりますが我が家に来た時から現在の9才まで一度もございません。しかし、咄嗟の動きは俊敏で先祖が獲物を追っていたままの野生を垣間見れる時もございます。何時もは長女が散歩に行くのですが、本日は私が散歩の当番と成りましたのでヤマトを連れて向かいました。目指すは地域の氏神である諏訪神社の境外地に鎮座する古からの御神宝を見にまいりました。


蚕種石と言い、地域に伝わる御神宝です。f:id:rcenci:20200126144858j:plain案内文によると神武東征のみぎりに抜群の功績を建てた天種子命(アマノタネコノミコト)の功にあやかる為に他の命達が山石を清めて奉斎したとの内容が書かれております。天種子命と言えば中富氏の祖神であり、忌部氏と一緒に朝廷の神事を司り、大化の改新の立役者である鎌足を排出し、後々に大きな勢力となる藤原氏につながります。地域の方々が大事にされて来た理由が何となく理解出来ます。

案内板です。f:id:rcenci:20200126144922j:plain私が最初に蚕種石を慧眼した時は一般の方の自宅のお庭に道から見える形で安置されておりました。現在の様な状態にするには地元の皆様が大事に奉斎しているからですね。

近くには此の石に因んだ公園も存在致します。f:id:rcenci:20200126144943j:plain

渓流解禁に向けての仕掛け作り その2

解禁に向けての仕掛け作りを進めております。私の仕掛けは浮玉と仲間内で呼ばれているフライフィッシングでいう処のインジケータの様な役割をする目印を使用しているのが特徴です。

此れが浮玉ですf:id:rcenci:20200121070409j:plain

社会人となった頃に釣宿で有名な木曽の旅館山水さんに初めてお世話に成り、浮玉が市販されている事を知りました。其れ迄は桐の木やタラの木で自作しており、根掛かりすると、そのままロストするのが悲しかったのですが、その後は製造している某有名老舗釣具店より直接購入したり、山水さんに行った時に買い付けておりました。ところが10年程前だと思いますが急に製造中止と成ったのです。昔の様に桐の木で自作致しましたが、発泡スチロール材とは使い心地が違いました。其処で様々な材料を見つけて試行錯誤を繰り返し、3年目に何とか納得のいく物が出来ました。某老舗釣具店では『鮎兵衛目印の丸』と言う商品名で販売されておりました。

浮玉は上下色を変えて装着致します。真ん中に通っているビニール管に糸を通して、上下をヨウジの先端を切ったもので固定致します。取り付けるのは0.3号以上のラインが好ましく、細糸を使う時は下にハリスを取り付けますが、私は極端な細糸は腕が悪くて使えません。風が強い時は2つとも沈めて流しますが、重りが軽い為に根掛かりするはずの無い仕掛けが止まった時が魚が咥えた時です。ヘチ際のボサ下を流す時や堰堤などの反転流が多いポイントは水中の浮玉がブイの役割をして魚の前まで餌を届けてくれます。また竿先で吊るす釣りでは無いので軽い仕掛けは根掛かりせずチャラを流れ、自分の竿の影で魚が逃げない利点がございます。最近急に目が老眼の呈を示し始めましたが、此の目印は360°どの方向からでも良く見えるので朝マズメのギリギリ見える時のチャンスを逃がしません。f:id:rcenci:20200121070901j:plain

大分上に位置確認の為の毛糸目印を取り付けます。これも沈める時がございますので沈みやすい様に上下に伸びる様に結び、下の部分は結目近辺にてカットしております。f:id:rcenci:20200121070732j:plain

添え糸8の字結びチチワ 鮎釣り名人の古川トンボさんの本で学んだのですが、チチワを作る時に添え糸を交えて8の字結びを行います。添え糸が緩衝材の役割をして此処からの高切れは絶対起こりません。f:id:rcenci:20200121070835j:plain

釣り師は其々己が創意工夫を凝らした仕掛けを使用していると思われます。どんな工夫された仕掛けを使おうが足場や水量及び流速、或いは獲物の大きさなど避けきれない事項によるラインブレイクは偶発的に起こり得る事は、致し方無い事だと考えます。
私も30年以上信州の川を巡り、お会いした釣り師の諸先輩より釣りに関する様々の秘訣を教えて頂きました。驚く様な内容も有って大変参考に成りましたが、話の根底には釣りを通して故郷の川と山に対して強く畏敬の念をお持ちであった事が印象に残っております。20代の頃を思い起こしてみると、周囲に先輩釣り師が数多く居た気がいたします。現在は自分が反対の立場となっておりますので次世代に恩返しを行いたいのですが、最近は若い釣り師どころか地元の子供すら釣り場におらず寂しい限りです。

渓流解禁に向けての仕掛け作り その1

若い頃は待ちに待った千曲川解禁の2月16日以降の休日に勇んで出陣しておりましたが、最近は3月1日の木曽川解禁からの出動です。釣り仲間もとっくに齢50を遥かに超えて無理しなく成ってまいりました。個人的に若い頃の事を思えば馬鹿丸出しですが、解禁に信州白馬松川上流部の沢目掛けて雪中行軍する事1時間半でようやく辿り着き、川を見たら一面氷の川で釣りに成らず引き返した事や木曽で雪庇を踏み倒して荒神橋下の本流に首まで水没したり、恥ずかしい思い出は枚挙に暇が有りません。

解禁は深めのトロ瀬や落ち込みを釣るので、極稀に大物が出る場合も有る事を考慮し、トラディショナルな太めのラインを使います。ずっと同じラインを使用しておりますので各号数の限界値が長年の感覚である程度分かります。

ダイヤフィッシングのフロストン鮎を長年使用しております 最近パッケージが変わりましたf:id:rcenci:20200119165200j:plain

父親の仕掛けを真似てロングライン使用時は4m、短いラインは一ヒロの長さで統一して、ポイントに合わせ適宜天井糸を使います。また仕掛け巻きは鬼印のソフト仕掛け巻きを使用しております。生産中止となった物も有り、販売店を探して買い溜め致しました。

鬼印仕掛け巻き 浮玉を収納出来る唯一仕掛け巻きですf:id:rcenci:20200119165229j:plain

糸を巻く時にヨウジを一本挟むだけで糸癖が付きにくくなりますf:id:rcenci:20200119165250j:plain 

ナイロン糸なので風邪を引かない様に乾燥剤を入れたマチ付きのビニールパックに並べて携帯致します

小さな封の出来るビニールパックは雨の日でも安心!f:id:rcenci:20200119165338j:plain

乾燥剤の周囲を袋が破れない様に丸くカット致しますf:id:rcenci:20200119165403j:plain

携帯時はさらに大きなビニールパックで二重に致しますf:id:rcenci:20200119165435j:plain

フロロカーボンラインを使えば此処までやる必要は有りませんが、一部の結び方を除いて結び目の強度が弱い事とナイロンの微妙な伸びに慣れてしまっているので仕方有りません。長年やってまいりましたが、仕掛けの強度は竿の固さとラインの強さと針の強度のバランスですね!良いと思われる最高のバランスを知るには、竿とラインと針を数種類使い、針のフトコロの開きも考慮して試行錯誤しないと分からないと思います。私の場合は年間せいぜい25日位の出漁なので其の都度考えてアレコレ試して納得行くまで時間が掛かってしまいます。然し其のやっと見つけた最高のバランスも肝心の竿が部品交換不能となる迄が有効期限です。そして再度理想とするバランスを求めて最初の段階である竿探しが始まるのです。仕掛け作りと保管に気を付ける理由と致しましては、釣り場で未知なる良型が来た時に後悔しない様なコンディションを保つ為です。私が仕掛け作りを始めると娘たちが『もう、そんな時期なんだ』と季節を感じるとの事で、父親として少し申し訳無く思った宵の口でした。

その2に続きます