みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

『お歳とり』と『二年参り』

信濃には『お歳とり』という文化がございます。大晦日の夜は家族揃って一年で一番のご馳走を食べます。私の妻がそうだった様に不思議に感じると思いますが、元旦より豪華な食卓となるのです。翌朝の元旦は『おせち』中心とした縁起物を頂きます。お歳暮で頂いたお酒や高級ハムなど『お歳とり』に食べようと廻される事が多いので、子供の頃は不満でした。大晦日の夕方と成ったら歳神様に食事を御供えします。大量の炊きたてご飯と何故か鮭の頭が神棚に供えられ、一緒にお神酒を添えます。後は家族で『お歳とり』です。

卓の上は『お歳とり』の準備が進められてますf:id:rcenci:20200101044806j:plain

食事を終えて少し休憩し、夜23時過ぎくらいになると地域の氏神様へお参りに行きます。此の参拝の事を『二年参り』と呼んでおります。信濃の冬は冷えます! 当然外気温はマイナスですので冷蔵庫の中より寒いのです。暖かい家の中から外へ出ると特に寒く感じます。

武水別神社 大晦日の夜は特別な雰囲気ですf:id:rcenci:20200101044842j:plain

更科に居る私達の向かう先は武水別神社八幡宮です。御祭神は武水別大神(たけみくまりのおおかみ)、誉田別命(応神天皇)、息長足比売命(応神天皇の母君である神功皇后)、比咩大神(ひめおおかみ)です。此処は善光寺平で一番の八幡宮であり、遠くは平安末期に活躍した木曽義仲公が戦勝祈願を行い、戦国時代は武田信玄公など多くの武将が崇敬を寄せました。近世初頭からは松田家が神官を務めております。此の神社は今は亡き叔父が神職を務めておりました。

よく神社で見られる反り橋は地上と天井界を繋ぐ橋と伝わります 虹を現しているので丸いのですf:id:rcenci:20200101044915j:plain


鳥居を過ぎると毎年の事ですが物凄い人で、露天商のイカ焼きのいい匂いが漂います。まず摂社の高良さんにお参りするのが我が家の決まり事です。高良さんの本社は福岡県久留米市にある高良大社で祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)です。参道に戻って毎年達磨を買う店で白達磨を買います。うちは必ず白達磨ですが、昔から決まっているみたいです。

露天商が通りに連なり賑やかですf:id:rcenci:20200101044942j:plain


余りの寒さに神社が焚火を用意してくれておりますf:id:rcenci:20200101045025j:plain

もう少しなんですが、まだお参り出来ません。寒さが身に染みます。お札を無料配布している場所も有り、参拝者には有り難い心配りです。やっとの事で順番が回り参拝を済ます事が出来ました。裏には倭武命など豪華な摂社がズラっと鎮座されておりますので一つひとつお参り致します。

後はお札と破魔矢を授与頂き、参拝終了となります。信濃の大晦日は概ねこんな感じでとても慌ただしいのです。f:id:rcenci:20200101045405j:plain

白達磨 お札 お守り 破魔矢f:id:rcenci:20200101045232j:plain   

最後に
令和元年六月よりブログを始めました。シーズン中の渓流釣り、シーズンオフは趣味である刀剣の事や神社巡りの事などを綴りました。乱筆であるが故に読み返してみると文章構成に違和感を感じる箇所が多く、今更ながら伝える事の難しさを感じる昨今です。皆様のご訪問に対して此の正良、改めて御礼申し上げます。
日本を取り巻く環境は、きな臭い話が多く、下手をすらば国家的危機が予想される令和二年ですが、皆様が平穏に過ごせる様に赤心よりお祈り致します。
        令和二年元日 於信濃国更科
                 平正良

仕事場にある物

仕事場でも私生活でも自分に憤りを感じた時に、常に自分を第三者の目で冷静に視る事を心がけているのですが、不徳の致す処で全く思う様にはまいりません。そんな訳でお恥ずかしい話ですが、会社のデスク周辺には、私なりの道標となる物が置かれております。物に頼る様では半人前であると自覚しておりますが、手っ取り早く気持ちをリセットしたり、原点に帰ったり出来ます。私の父は観世龍能楽師範で多くのお弟子さんを持ち、日々奥座敷でお稽古をしておりました。奥座敷の鴨居には『増女』や『翁』などの能面が掛かられ、棚には『鼓』や『大皮』など能に関係した物が据えられておりました。お正月やお盆などの特別な日は座敷での食事となり、其々の所以などを聞きました。中でも京都十松の扇は父の師匠から頂き物であり、父は此れを『見る度に精進を誓ってる』と言っておりました。そんな父の話の中から一つ披露致します。今から遡る事600年前に世阿弥が書き残した『花鏡』という本に載っていて、誰もが知ってる有名な言葉に『初心忘るるべからず』という言葉がございます。結果が意に反した場合に『初心』を思い出し、始めたばかりの謙虚で真剣な心持ちを忘れてはならないと言う教えです。世阿弥が教えた『初心』とはその段階においての『初心』であり、年齢や立場で変化するものである事も父より教えて貰いました。正直申し上げると聞いた時は中学生位で特段何も感じておりませんでしたが、最近になって父の教えを都度に思い出しております。

面頬f:id:rcenci:20191224105635j:plain

私の仕事場においてパソコンの前に座る私を人の本性が出ると言われている左側の高い位置から見据えている面頬です。お陰様で常に凛とした空気の中で仕事が出来ます。仮に何か良からぬ思いが脳裏を少しでも横切るとすれば、全て見透かされている様な感覚です。戦国時代は主人の決断一つで一族が栄えたり、滅びたりする事が繰り返されました。それだけ思慮を尽くさねばならないとの自分への戒めです。しかし左上から見下ろされると何となく少し怖いのが玉に傷です。

『喫茶去』掛け軸  伴鉄牛老師f:id:rcenci:20191224105707j:plain

この掛け軸には思い出が沢山有るのです。私は幼少の頃より暴れん坊で親も手を焼いていたとの事でした。そんな中で信州佐久の小海線中込駅から車で10分程の場所にある貞祥寺(ていしょうじ)という古刹に伴鉄牛老師という高僧が来山し、座禅会を開催するの事で、私は父より二晩の泊まりがけで参加を命じられました。その頃の私は小学校低学年であり、禅とか聞いても難しい事は全く分かりませんでしたが冒険みたいで興味が湧いたので同意致しました。さて実際の座禅会ですが、全く考えていた内容と違う事に気付くまで時間は掛かりませんでした。明確に覚えているのが座禅の時に警策で肩を打たれ、反撃しようと立ち上がった事と、子供ながらに此処で反撃したら親の顔を潰すと思って耐えた事です。そんな私に周りの参加者の皆様はとても親切でした。参加者の中で一人の気の強い6年生の子供が父親と来ておりました。どんな場面か覚えておりませんが、その子と二人の時に4年生の私に突っ掛かって来たので私と喧嘩に成りました。喧嘩の原因は全く覚えておりませんが些細な事だったと思います。体の大きく力の強かった私は相手の腹を強かに蹴り、相手が蹲っていたので、少しやり過ぎたと思った事を覚えております。その子の父親が近くに来て、子供同士の事なので何も言うつもりはないが、此処は修行をする場所だよと諭されました。突っ立っている私と蹲って痛がっている息子に諭した後は、心配そうに子供に寄り添って居た事を鮮明に記憶しております。諭した喧嘩相手の父親は穏やかな表情で何処となく暖かさを感じました。今から思うと本当に悪い事をしたと思います。喧嘩相手の父親は立ち居振る舞いや言動から鑑みるに立派な方で有ったと思います。今思うと正に赤面の至、穴があったら入りたい様な出来事です。そんな中で伴鉄牛老師に呼ばれ、老師の居る部屋へ入りました。老師の名前は『鉄の牛』なので強そうな方かと思っておりましたが、小柄な老師が座っている姿は例えようも無く自然で、何か周囲の景色に溶け込んでいる様な不思議な感覚であり、壁から声が聞こえる様だった事を記憶しております。よく見ると和やかな御顔で話をされておりましたが、残念ながら話の内容は全く記憶に残っておりません。因みに貞詳寺は室町時代信濃國の前山城を本拠とした豪族の伴野貞詳(とものさだよし)が父親と祖父の為に建立した由緒正しい名刹で有り、敷地にある三重の塔は現在長野県宝に指定されてます。二泊三日の座禅会の最後に参加者を集めて老師の話があり、皆に老師直筆の書が手渡されました。その書を父が記念に表装した物です。

子供の頃は『喫茶去』の意味なんて全く興味も有りませんでしたが、大学生4年の時に茶道に通じた友人より話を聞き、初めて意味を知りました。『喫茶去』は禅語であり、簡単に言いますと『お茶でもどうぞ』です。発祥は中国における唐の時代まで遡ります。当時、趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)と言う高名な禅の巨匠がおりました。ある日禅師の所に二人の若い僧が来山致しました。禅師は二人に以前に此処に来た事がありますか? と尋ねた処、一人は『有ります』と答えました。禅師は答えた僧に『喫茶去』つまり『お茶でもどうぞ』と言いました。もう一人の僧にも同じ事を聞くと『来た事は有りません』と答えました。趙州禅師は其の僧にも『喫茶去』と言いました。それを訝しげに見ていた院主(お寺を管理する立場の高僧)が、何故一度来た事がある僧と始めて来た僧に対して同じ様に『喫茶去』と言ったのか尋ねると禅師は院主にも『喫茶去』と言いました。つまり趙州禅師は初対面の人でも、そうでない人でも、高僧であっても分け隔てなく『お茶でもどうぞ』と言ったのです。地位や立場、損得や利害、または貴賎の差でなく、同じ様に接するという意味なのです。此れは今の私に取って本当に大事な道標と成る言葉です。今は亡き伴鉄牛老師と老師の書を高額なお金を支払って表装してくれた亡父に感謝しております。入社28年目の今でも此の書に諭される事が数多あるのです。皆様も自分の理想としている言葉や書物が有ると思いますが、そう言う物は近くに置く事で更に存在感が増しますね! 私も新しい『初心忘るるべからず』を探求してまいります。

餌箱作り 七合目

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竹の切り株から整形した胴と桐材の蓋にカシュー系の漆を薄く塗り込み、乾燥させる事の繰り返しを4回行った物です。完全に乾燥しないと塗り重ねが出来ない事と色斑防止の意味で薄くしたものを塗り重ねるのです。段々と色が良くなってまいりました。あと3回程塗り重ねるともっと深い色合いになります。内側は虫が目立つ様に朱色にしております。朱色は元々降魔の色で神社など鳥居などに使われており、有名なのは海の青とのコントラストが綺麗な厳島神社ですね。山間の川にも魔は潜みますので朱を使っております。因みに此の二つの餌箱は釣友が縦ニ連で首に下げて使用する予定の物です。川虫とミミズなと結構二種類の餌を使う事が有りますが、ダブルハンドで長竿を構える時に、横に2つ大きな餌箱があると結構邪魔なんです。スリムな方ですと腰に餌箱を付けても問題有りませんが、私などは腹圧?で蓋が開かなくなります。

過去に掲載した写真ですが順に載せてみます。

一回塗った状態ですf:id:rcenci:20191219074801j:plain

胴と蓋の形成が終わった物ですf:id:rcenci:20191219074818j:plain

竹の一節残しを切り出してノミで肉を落としてサンドペーパーで仕上げている途中の物ですf:id:rcenci:20191219074840j:plain

友人より竹の節を送って貰い、広げた時の画像ですf:id:rcenci:20191219074913j:plain

渓友会の大納会

本年度の渓流釣りの反省会と会員一名の卵ゲップ病発症を除いては会員が無事に漁期を終えた事に感謝する会を催しました。場所は会社の寮がある国分時で27年間お世話になってる焼肉屋さんです。毎年此処にまいりますが駅前の変貌ぶりには其の都度驚かされます。

毎年の事ながらお肉の量が尋常ではありません。f:id:rcenci:20191215200047j:plain

様々な今シーズンの渓での出来事の話が飛び交って御酒も進みます。歳は取りますが気分だけは飲みたいので困ったものですね! 諸先輩方も頗る元気なご様子で安心致しました。私の会の皆様は酒豪が勢揃いしており、店中のワインが無くなってしまったと店主の奥様が話しておりました。

店の雰囲気は最高です。よく此の店で若年社員の頃、寮の先輩にご馳走に成ったのを思い出します。f:id:rcenci:20191215201233j:plain

シーズン中に釣れた魚の写真に対して深みからの遡上だから尾鰭の下が擦れているとか、バラした魚の大きさとか和気藹々とした会話と笑い声が店内に響きます。

店内の雰囲気も相まってあっという間に時間は過ぎてまいります。f:id:rcenci:20191215201841j:plain

さて、そんな中でホームグランドの千曲川の話になり、本年度は厳しいのでではないか?とのご意見が多く出ました。南佐久南部漁協の方針は知り得ませんが、ここ数年において川上村など魚影が薄く、往時と比較すると釣り人の数は百分の一と言っても過言では有りません。そんな中で川床が変わる程の台風に襲われて壊滅的な影響を受け、酷い有様が想像され、高い高速代金とガソリン代を払ってまで行く価値はあるかと考えると諸氏の考えも十分に肯けます。 

美しい川上村
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南佐久南部漁協のやる気次第では早々の立ち直りが可能ですが、魚居ない→釣り人来ない→年券が売れない.....の悪循環スパイラルに陥っている組織の動きは限られますので期待は持てません。其処で木曽川以外のホームグランド候補を皆で話し合いました。話し合いをもって、ほぼ新しい河川は定まりましたが、会長としての私の決断が決まらないまま予定時間終了となり、翌日である今日も悩んでおります。全ての漁協が木曽の様なら有難いのですが生湯を使った千曲川だけに判断が難しいです。

皆さん元気でなによりでした。f:id:rcenci:20191215202635j:plain

信州 真田宝物館 松代藩荒試しの刀

真田宝物館のホームページより

信州松代は真田13万石で有名ですね!信州真田家に伝わった諸々の宝物は真田宝物館に収蔵されております。家から車で15分程なので帰郷の度に訪問し、其の時の展示を拝見するのを楽しみとしております。少し前の話ですが世に伝わる物凄い物が展示されておりましたので今回ご紹介させて頂きます。私は其の時の展示物が当時の物と知り、恥ずかしながら事の凄まじさに少々戦慄を覚えました。その展示物はと言うのは刀で有り、史上稀な刀の堅牢さを試す試刀会で試された物です。当時の松城藩をあげての試刀会で実際に試された現物でした。清麿は勿論、山浦一派の研究では第一人者であります花岡忠男さんの書籍で内容は知り得ておりましたが、試された現物を見ると只々驚嘆するばかりでした。最初に簡単に次第を説明すると松代藩上級藩士の多くと城の常備刀として納められていた大慶直胤と言う刀工の刀が簡単に折れた事から始まり、直胤に変わる当時頭角を表していた新進気鋭の刀鍛冶の刀の強度を試し採用するか否かを決めたのです。更に其の新進気鋭の刀鍛冶に刀の性能として折れやすい錵出来の刀を打たせての試刀会だったのです。刀の焼入れと強度については、私ごときが説明するには余りの知識不足の為にやめておきますが、簡単に説明すると高い温度で焼入れした刀は強い焼きがはいる代わりに折れやすい特性を持ち『錵出来』と言われます。対して其処までの高温で焼入れしてない備前伝に代表される刃文を匂い出来と表現すます。相州伝に代表される錵出来にも小錵やら荒錵やら沢山の種類がありますが、此処での説明は省きます。

ボロボロの直胤の刀

別角度からの撮影

この刀の説明文です。
歴史の具現化された物として残された事は本当に称賛に値する事だと考えます。

この話は刀剣好きなら知らない人が居ない程の有名な試しです。当時の真田家江戸家老矢沢監物が贔屓にしていた大慶直胤は現代においても新々刀の第一人者と認められており、当時でも間違いなく当代随一であったと思われます。どの伝法もこなす名人で特に直胤独特の渦巻き肌の刀は見る者を魅了致します。私も何処かは忘れましたが、ある刀屋さんで見せて頂いた時は惚れ惚れ致しました。試刀会に至った次第は直胤の刀を用いてある藩士が切り試しをした処、刀が折れ飛んだと言う事から始まり、その事を聞いた藩士達が次々に己の直胤刀で試した処、簡単に折れました。松代藩内では大騒動になりました。藩士個人だけでは無く、お城の常備刀として納入されておりましたから事は重大です。藩士達は大慶直胤を『大偽物』と罵りました。そこで先程の新進気鋭の信州の刀鍛冶の刀と一緒に荒試しを行なったのです。新進気鋭の刀鍛冶屋の話を綴ると、長文になり過ぎるので、此処では大慶直胤の刀に対して行われた試しだけ紹介致します。

嘉永6年3月24日、真田藩武具奉行の金児忠兵衛邸で行われました。集まった藩士は120人を下らずと有ります。10人が選ばれて目付役とされ、切り試し役は家中手練れの者が7人選ばれたとされております。他には研ぎ師2人、万が一の事故に備え医師が1人臨席と有ります。
最初に試された一口は直胤刀で二尺三寸八部分の荒錵出来の刀、まず俵菰二枚重ねの干藁を切ると八分切れ、切れ味中位、次いで厚さ8厘、幅三寸の鉄鍔を切ると刀は鍔元7〜8寸から折れる。
二口めは直胤刀二尺三寸の匂い出来の刀(高音で焼き入れする錵出来より比較的低音で焼き入れする匂い出来の方が丈夫と言われてます)。干藁を一太刀切ったら腰(反り)が伸び、そのまま五太刀切ったら八分は切れた。鉄砂入陣笠に二太刀、一太刀毎に腰が伸びる。鉄胴にニ太刀で刃切れ入り、刃毀れ生じる。鹿角に三太刀、鍛鉄に三太刀、鍛鉄を少し切り割るが刃切れも多く出た。次いで兜に一太刀で大いに伸びる。鉄敷棟打ち七太刀、平打ち四太刀で折れた。
三口目が直胤作の長巻、干藁をニ太刀切っただけで刀身は曲がり、切れたのは五分のみ。
四口目も直胤作の長巻、干藁への一太刀で曲がり強しで切れ味四分から五分とされる。
五口目も直胤作の長巻で干藁にニ太刀で五〜六分切れ、続いて鹿角にニ太刀、一太刀で刃毀れの上大いに伸びるとある。ニ太刀目に更に伸びて刃切れ入り曲がり強く切る事が不可能となる。鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つて刃切れ口大いに相成り曲がり、ぐたぐたにて其の差置くとあります。何も城方に常備刀として置かれた刀で有り、匂い出来の刀以外は腰が弱すぎて使えないと確認されたと有ります。想像するだけでも手に汗握る凄まじい試刀です。
上の写真の刀が一連の試しに使われた物である事は間違いありません。松城藩のみでは無く水戸藩でも同様な事が行われていたと書物で知りました。嘉永6年の3月24日に行われた試しで城に納入する刀鍛冶を決して、同年7月にペリー提督が黒船4隻で浦賀沖に出現したのです。ペリーが来航して風雲急を告げてからのスタートでは無く、其の前の事なのです。流石は武で名を轟かせた真田藩であるといえる凄い先見の明ですね。

直胤の次の松代藩御用鍛冶の打った傑作の一口です。

クリスマスリース造りと歳神様来訪の準備

私に取ってクリスマスは余り特別な日では有りません。更科に住んでいた頃、妹の幼稚園がカトリック系だったので、その頃は実家に於いて慣れないクリスマス料理を母が作ってくれました。今は見かけませんが赤玉パンチという甘いワインで鳥腿を煮込んでバターで仕上げる料理が出たり、近くの洋菓子屋さんで買ったクリスマスケーキが出たり致しましたので食いしん坊な私は、母の料理が楽しみでした。現在我が家では特別な事は致しませんが、亡妻の実家に家族3人で泊まりで行くのが結婚以来の慣しと成っております。年末には更科に帰郷致しますので一年の御礼も込めて訪問するのです。義弟夫妻や子供達も集まり、父と弟と好きな事を話しながら日本酒を心ゆくまで頂いて、挙げ句の果てにベロベロで布団に潜り込んで、気が付いたら何時も朝に成っております。妻が他界しても妻の両親は実の親みたいに接してくれて本当に有難い限りです。さて、お題のクリスマスリースですが、釣友の家族やご近所がが喜んでくれますので、秋に山から蔓を取って来て制作しております。 

11月初旬に取った蔓を巻いて乾燥させてます。切り口には木工用ボンドを付けて割れを防ぎます。f:id:rcenci:20191210231141j:plain

以前に山仕事を生業としていた叔父に聞いたのですが、蔓という植物は木に取っては天敵だとの事です。木に巻きつくと木の成長と共に蔓が木に食い込み、木は窒息の状態と成ったり、蔓に葉が茂ると木に当たる日光を遮断してしまう事で木の成長が止まったりして最悪は枯れる事があるとの事です。私は何気なく山野を眺めてましたが山野の木々も熾烈な生存競争を生き抜いている事を感じました。伯父から聞いた事ですが、蔓切りという作業が林業に有り、これから木が成長する春先に行わなければ駄目な必須作業で有るのと事でした。しかし蔓は生命力が強く春に切っても夏には再び巻き付くのと事です。リース造りは2m程に切った蔓を内側に巻き込みながら丸く仕上げ、少し陰干しを行い、硬く成ったモノから飾り付けに取り掛かります。飾りは100円均一で大体は揃いますが松ぼっくりは近くの公園などに落ちておりますので拾ってまいります。尚、松ぼっくりは2、3日バケツなどに入れて水を入れて置くと中にいる虫が居なくなります。好みに寄りますがラッカーなどで仕上げずに、そのまま使った方が味が有りますね! 小さなモノと大きなモノで遠近感を出すと面白い場合もございます。毎年5個程作るので色々なバージョンを試しております。リース自体の発祥は古代ギリシャまで遡る歴史を有し、五穀豊穣や魔除、永遠に継続するなどの意味合いなあると一昨年にテレビ番組で知りました(いい加減で、すいません)。

10日程前に仕上がったモノですが、もう依頼主の玄関に飾られている事だと思います。f:id:rcenci:20191210231218j:plain

対して此の時期に我々日本人はお正月の準備ですね! 玄関に飾る門松などは歳神様をお迎えする為の結界だと父から教えて貰いました。大掃除も歳神様をお迎えする為に穢れを払う事が本来の目的ですね。神棚には塩、酒、米などを供えて鏡餅を置いて歳神様が宿るのをお待ちするのです。我が家は往時に於いて千曲川を遡った鮭をお供えした名残でしょうか分かりませんが、大きな塩鮭の頭が神棚に供えられます。大晦日の夜に歳神様が家に来訪されるのを家族皆でお迎えし、様々な祈りの込められた料理を家族で囲み、歳神様を歓迎する宴を催すのです。年明けの鏡開きは歳神様が宿った餅を家族で頂いて歳神様の霊力を身に付け、一年の無病息災を願う為の行事です。日本は元々、各家に氏神様が来訪する精霊の国なのです。神様と一緒に歳を越す文化は日本独自だと思いますが、私の不勉強でしょうか?
信州には『お年取り』という独自の文化がございます。私も大学に出て東京に来てから其のことに気がつきました。歳神様が来訪する31日の大晦日に一年で一番のご馳走が出ます。出世魚のブリやお刺身など食卓の上は大変な状態になり、年の瀬を迎えます。信州人のブリに対する思いは強く、県内のスーパーには物凄く大振りな切り身が並びます。千国街道(別名ブリ街道)と言う街道が松本から糸魚川まて繋がっており、塩や他の物資を運ぶ大切な道だったと伝わっており、この街道を通りブリが信州にまいりました。因みに安曇野で有名な塩尻市は太平洋からと日本海からの塩を運ぶ其々の終点であったので塩尻という地名と成ったと言われております。大晦日のご馳走を食べた後は更に此処から『二年参り』と言う行事が待ってます。地域の方々が真夜中に氏神様へ赴き深夜0時と同時にお参りを致します。刺す様な冷気に酔いも一気に醒めるので妻が来た最初の年はとてもビックリしておりました。実際には参道に出来た物凄い行列と参拝者同士の挨拶でちっとも前に進まず、お参りは0時から過ぎる事が程どです。従って紅白の結果は家に帰らないと判りません。参拝を済ませて達磨を購入し、破魔矢やお札を授与して頂き、元旦の深夜2時頃にやっと床につきます。其処から少しの間をおいて元日となり、再度神棚の氏神様と歳神様に挨拶をしてから、新年の屠蘇とおせち料理を家族で頂くのです。従って信州では仕方が無い事を除いて年末に家族が集まります。若い頃は少しばかり窮屈でしたが、此の年になると改めて良い伝統と感じます。

今年使った刃物を研ぐ

信州千曲観光局のホームページより、姨捨にある棚田の写真です。

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私の育った更科の実家周辺は家から15mで佐野川と言う川が流れております。此の川は途中から酸性の強い土壌を流れ降る為に中流から下流部は魚が住めませんが、上流部には苔むした岩を擁する流れが有って天然イワナが住みます。家の近くの佐野川を少し下ると日本一長く、千回も曲がって流れ降る千曲川がございます。近隣には他にも大小の沢が有り、其処には沢山の魚や水棲生物、魚を狙う鳥が何時もおりました。千曲川が大水の後は稀に大きな池の様な分流も出現し、ビックリする様な大きな鯉が釣れてまいりました。その様な秘密の釣り場に辿りつくまで葦(ヨシ)の藪を鎌で薙ぎ払ったり、沢の岩魚を捌いたりする時には肥後守ナイフだったり、子供の頃より割と刃物には慣れ親しんでおりました。使っていると当然切れなく成るので必要にかられて研ぎました。従って研ぎ方を覚えるのは当然の成り行きでした。使用中に指を切ったりなどの怪我は日常茶飯であり、血止めにヨモギを噛んで傷口に当てると直ぐに血が止まり、強烈にシミたのを今でも記憶しております。そう言えば子供の頃の素朴な疑問でしたが、肥後守や鉈と比べて祖父が手入れしている刀は何故にこんなに色が違うのだろうと不思議に思ってました。勿論研ぎ師が精魂込めて研磨した刀と私が研いだ肥後守ナイフは違うのは至極当然ですが、恥ずかしながら砂鉄の色が産地で違う事、タタラで沸かした玉鋼という和鋼を刀は材料にしている事を知ったのは20代後半でした。

 
現在所有している腰鉈と斧以外の刃物の中で今年一回でも使用した物や、友人に貸して帰って来た物です。後は腰鉈二本と使用する勇気の無いラブレスのセミスキナーが有るだけです。

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秋山郷の師匠から頂いた山刀(鞘しかないので携帯に不便)や義父の弟で山仕事をやっていた叔父さんから頂いたトラックの板バネから削り出した剣鉈など様々な刃物を多く所有しておりますが、やはり和式刃物は抜群に切れますね!青紙や白紙で打たれた物などは使用していて本当に気持ちが良い切れ味です。反対に炭素鋼でも何となく弱い物も有ります。鉄に粘りが無いのか分かりませんが、中砥の段階で刃先から糸より細い棒状の刃先部分が取れて仕舞う物も有ります。炭素鋼のオピネルナイフも同じ現象になる物が有ります。同じ炭素鋼でもコールドスチールやアイトールなどのメーカーの炭素鋼ナイフは此の現象は起こりません。釣りなどに使う刃物は必要ならその都度研ぐのですが、此の時期にはメンテナンスも兼ねて使用した物を全て研ぎ直します。整形が必要なら粗砥からですが、大体は中砥からスタートです。炭素鋼に粗い砥石の砥石目が残ったら、其処から錆びますので中砥の段階で砥石目を除去した方が錆び難くなります。炭素鋼のナイフに皮シースが付いている物もございますが、皮のナメシには元々大量の塩を使いますのでシースに入れっぱなしだと錆びます。特に雨の日や朝露でシースが濡れるとテキメンです。ステンレス製の刃物はシースに入れて長期間保管するとヒルト(鍔)が変色致します。シースの形も崩れますのでシースから抜いた状態で保管をお勧め致します。良質なセラミック砥石が出回ってから研ぎ時間も少なくて済み、とても楽になりました。今はまだ昼頃ですが、今から全部研ぎます..... 研ぎ終わったら砥石の面直しです.....終わるのは夕方だと思われます。