みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

木曽川 イワナ釣り 今期初

とうとう木曽へ釣りに行ける日が来ました。先週は土曜日に大学の同期会が有り、しこたま飲み過ぎてしまい、日曜日は二日酔いでブログも書けずに寝てました。

昨年秋に新調した本流竿を車に積み込み中央道を直走って現地に着いてみると、目当ての本流は大増水でポイントが無くなっておりました。此の時期にこれほど増水している事は稀です。半分不貞腐れて大きめの支流に入る事と致しました。

木曽には可愛らしい福寿草が咲き誇っておりました。私はこの花が大好きです。
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本年度の木曽における1匹目はプックラ太った8寸イワナでした。来てくれて有難う〜! 
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立て続けに釣れてまいります。瀬には出てなく、深めの沈み石近辺で魚信が出ます。
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此処で良型が2匹出ました。
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続けて良型が結構釣れてまいります。
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桜も満開で華やかです。
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取り敢えず第一ラウンドはツ抜けでしまったので一旦はやめました。一番の型は29.5cmの泣き尺でした。因みにツ抜けとは一ツとか三ツとか数えていって、10になるとツが抜けるので『ツ抜け』と言います。
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皆んなで黒川沿いに有る日帰り温泉『せせらぎの四季』さんに立ち寄り、木曽の赤湯で疲れをほぐし、併設されているレストランで美味しい山賊焼を頂きました。
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本日の宿は木祖村にある高原荘さんです。薮原高原スキー場の真横なのでゲレンデには残雪が残り、イワナの保管には此の上無い環境です。オマケに宿の後ろの川も天然イワナの宝庫です。f:id:rcenci:20240413200231j:image

宿に入る前に魚の処理をする為にムサザワ川に立ち寄りました。少しだけ竿を出しましたら驚く事に今季初の尺イワナが釣れました。木曽の龍神様に感謝です。
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写高原荘さんのご厚意で夕食には熊鍋が出ました。前回と比べて今回からの熊さん肉は柔らかくて美味しかったです。
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今回は大阪や金沢からも釣友が集まっており、釣り談義に華が咲き木祖の夜は更けていきました。釣りの良いところのは、釣り自体の面白さも去ることながら、此の様に遠方の渓友でも年に数回ほど共に集えるところにあると思います。

年老いた名刀

今週末は会社の全ての責任者が集まる大会議が有りました。その後は子会社の親分衆も含めた慰労会が行われ、更に其の後は直前に出た大人事異動に伴う地区の歓送迎会が行われました。当然ですが大量のお酒を飲んでしまい、ヘロヘロで町田の自宅まで戻り、とても釣りどころでは有りませんでした。

其の様な訳で今回は今年一月に東京国立博物館に『三日月宗近』を見に行った時の話を致します。三日月宗近とは世の中に伝わる天下五剣の内の一口です。此れ等は刀剣千年の歴史の中で特に優れた物であり、品格及び霊格が極めて高く、何よりも其の出自に伝説を持ちます。

此方が三日月宗近です。千年以上経過した鉄の輝きは見る者に何かを語りかけてくる様です。
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天下五剣について少しだけご案内致します。刀剣は武器ですが、武器の前に神器でも有ります。特に出来の良いモノは実戦には使用せず、御神刀として、また家の守刀として後世に伝えてまいりました。

童子切安綱』  源頼光丹波大江山に住み着いた酒呑童子と言う鬼を切った太刀です。伯耆の大原に住んだ安綱の作。国宝指定、東京国立博物館蔵。
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『鬼丸国綱』 北条頼期を毎夜苦しめた鬼を切った太刀。名工であ粟田口六兄弟の末弟である粟田口口綱の作。現在は皇室の御物(ぎょぶつ)です。
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大典太光世足利尊氏の佩刀。筑後國三池の光世の作刀。国宝指定。豊臣秀吉から前田家へ伝来。現在は前田育英会が所蔵してます。

『数珠丸恒次』古備前の左近将監恒次の作。日蓮が信者から送られて以来、自らの守刀としていた太刀。柄に数珠を巻き付け破邪顕正の太刀としていたところから数珠丸の名が付いた。重要文化財指定。兵庫県本興寺像。

いずれの太刀も天下五剣と呼ばれるに相応しい名品ばかりなのは御理解頂けると思います。

さて本題の三日月宗近ですが、京都三条の宗近の作刀です。室町将軍家に伝わった名刀の一つであり、その後は天下人の豊臣秀吉の正妻である高台院の持ち物となり、高台院が没した後は徳川秀忠に送られ、その後徳川家の所蔵となりました。明治期になってから徳川家から流出したものを旧中島飛行機の社長であった中島喜代一氏の持ち物となり、その後は実業家であり工学者である渡邉三郎氏に伝わり、息子の誠一郎氏から東京国立博物館へ寄贈されたのです。
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刀身は大分研ぎ減りしております。状態を例えるなら、枯れた老婆の状態なのです。しかし其の枯れた姿は、腰反りから小切先までのシルエットが、そこはかとなく美しく、当時における平安貴族達の雅を感じさせます。

説明書です。
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三日月の名は焼き刃のすぐ上に『うちのけ』と呼ばれる独特の働きから来ております。具体的には刃文の上に弧状のごく短い焼きが幾つも入っております。弧状の小さい焼き刃は、まるで三日月の様にも見える事から三日月宗近命名されたのです。

写真で『うちのけ』を撮影するの事は難しく、お伝え出来るか分かりませんが、焼き刃の上に三日月状に弧を描いている焼き刃がうちのけです。
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此の『うちのけ』が上から下まで現れております。
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名刀を見ると本当に心が落ち着きます。宗近が作刀した刀剣で他に有名なものは、牛若丸が鞍馬寺で修行を行い、いざ奥州へ向かう際に授けられた短刀の『今剣』がございます。三日月宗近のうちのけを見ながら思いは平安後期に金売吉次の案内で奥州藤原氏を頼る旅に出た牛若に思いを馳せ、更に松永久秀に責められ、沢山の名刀を畳に刺して戦った室町幕府13代将軍の足利義輝の無念まで思いを馳せました。

三日月宗近の前で立ち止まる事2時間に、次女と比べて気の長い長女も流石に業を煮やし、『お腹減った〜』の三連発です。

仕方なく、一旦外に出て、敷地内に有るホテルオークラが運営している『レストランゆりの木』に向かいました。

私の場合、色々迷う時は何時も此れです。
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最後に珍しいものを一つご紹介致します。滅多に見る事の出来ない代物で有り、二回目は此方に釘付けでした。

鳳輦(ほうれん)です。簡単に言うと天皇陛下行幸時にお乗りになる乗り物です。東京国立博物館明治19年から昭和22年まで宮内省の管轄で有り、帝国博物館と言われておりました。恐らくは、其の時代に払い下げ渡されたものだと思います。説明書きには江戸時代の作だと有りました。
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千曲川水系 渇水のイワナ釣り

本日は入社以来33年の長いお付き合いである大先輩と千曲川水系に釣りに行きました。最初に入った八千穂の支流はお互いに全く生物反応が無く、早々に退渓しました。次に向かったのは川上村を流れる黒沢川という支流です。

暗いにうちに撮影した国道沿いの気温表示板です。
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有名河川である黒沢川上流も途中からの入り口が有りまして、今回は立木に葉を付けてない今だから可能な入渓ポイントの確認も兼ねておりました。まだ雪が残る杣道をズンズン突き進んで、やっと川に出ました。指先が悴んで餌が上手く装着出来ないのも此の時期ならではであり、一緒に入渓した先輩と苦笑いを交わしました。

物凄い渇水です。イワナは『岩魚』と書きますが、此の時期彼等は水深が有って水通しの良い場所に潜んでおります。此のポイントでは3匹釣れました。
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此のポイントで今日一番の良形が私の落とし込んだエサを食べてくれました。
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今日の釣果です。今は下の娘が町田に戻って来ておりますので、久しぶりにイワナを食べさせてあげようと思います。千曲川龍神さまに感謝し拝礼致しました。
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川縁に立つ石仏です。宝暦13年の年紀が刻まれております。宝暦13年と言えば1763年なので261年前ですね。まさに田沼意次が力を付けて行った時代です。其れにしても仏様のお顔が何とも言えず素晴らしいのです。下部に補修の跡が見えますので、きっと心ある方が由緒有る石仏さまを石塊にする事を嫌ったのだと思います。名も知らない功労者を思い浮かべて拝礼させて頂きました。
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何故に宝暦13年に目が止まったのかと言うと、私の佩刀である薩州住平正良の刀に切られている裏年紀が天明三年であり、宝暦13年の年紀を持つ此の石仏は其の20年前に彫られたものだからです。

天明の大飢饉前の明るくて賑やかな時代だったと思われます。
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天気予報では雨でした。しかし周囲の天候は着替えている時から雪がチラつき、あっという間に薄く道路に雪が積もって来たのです。本日は先輩のジムニーシエラで参りましたが、タイヤはノーマルでした。2人で慌てて車に乗り込み、積雪が酷い野辺山高原を何とか超え、チェーン規制寸前の須玉インターから中央自動車に乗り込む事が出来ました。此の事も千曲川龍神さまのご加護だと考えシエラのハンドルを握りながら御礼申し上げた次第です。

初釣り

寒くて迷っておりましたが、更科の実家に用事で帰省したついでに近隣の小河川を釣ってみました。妹が作ってくれた昼ごはんを食べた後の出発です。せめて1匹だけでも故郷のイワナの顔さえ見られれば幸いでした。午後の予定も入っており、制限時間は行き帰りも含めて2時間です。オマケに『お兄ちゃん、絶対に〇時迄には帰って来てね』の声を背中で聞きながらの出発でした。

我が家の近くの千曲川は広いのです。本流の左右に流れ込む小河川が多く有ります。此の時期なので当然ですが、人が入った形跡が何一つ有りません。
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今回は何時もキノコ取りをする山に流れる小河川から始めましたが、全く音無の構えでした。数箇所回ってみたのですが、全く反応が有りません。

山の中は大分冷え込んでおり、山を少し下った道路沿いに有る酒屋さんまで車で戻り、軒に併設されていた自動販売機で暖かい缶コーヒーを買いました。酒屋さんの車が駐車してある横に庭があり、其の庭には小さい池が有りました。薄く氷が張っておりましたが、氷の下では緋鯉が元気に泳いでおりました。此の光景を見て、何だか釣れそうな気分になりました。
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それなら....と一山超えた違う沢にある毎年必ず釣れる落ち込みに向かう事に致しました。

目的の場所に到着してみると、何と工事が行われており、土嚢が積まれた悲惨な状態になっておりました。しかし良く土嚢袋を見ると最近のモノでは有りません。ダメ元でブドウ虫の着いた仕掛けを入れてみると、ククンッとアタリが有り、今年初のイワナが釣れてまいりました。その後も同じ場所で次々と天然イワナが釣れてまいりました。氷の下で元気に泳いていた緋鯉さんのおかげです。
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コレだけ釣れればもう満足です。更科の名も無い川の龍神さまに拝礼し納竿しました。
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今回釣ったのは左の支流の上流です。此の写真は2月に帰省した時に我が家のお墓に向かっている私と娘を妹が撮影したモノです。
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帰ってくると家の庭には春を告げる花が可憐に咲いておりました。名前は分かりませんが、此の時期によく庭に咲いている花です。
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仕事の合間に史跡訪問

今日ご案内させて頂く事は、今年の1月中旬頃に私が勤務している横浜の営業所から、お客さまが経営されている鎌倉鶴ヶ丘八幡宮近隣の店舗に向かった時のお話です。

ところがもう少しで鎌倉に入るタイミングで訪問先のお客座から連絡が入り、アポの時間を1時間ほど遅らせて欲しいとの申し出がありました。もう鎌倉に入るところでの連絡で有り関内の営業所に戻る訳にもまいりませんでした。

其処で前々から訪問してみたいと思っていた日本史上無類のNo.2である執権北条一族が最後を迎えた東勝寺跡に行ってみる事に致しました。念の為に申し上げますが、決して最初から狙っていた訳では有りません(笑)。

東勝寺跡は鎌倉市小町3丁目10−1にございます。当日は鎌倉に祖父の実家を持つ若い社員と一緒だったのでスムーズに目的の場所まで到着到達出来ました。

実はこの地で北条一族郎党870余人が自刃し、実質的に鎌倉幕府は滅亡したのです。歴史学的にも一級品の遺構となります。東勝寺は3世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により創建されました。
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跡地にはフェンスが設けられており、北条一族の御霊が眠る聖地への侵入を阻んでおります。季節的に冬という事もあり、凛とした冷気に包まれた厳かな場所でした。
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周辺は背後に鎌倉特有の急峻な山々を持ち、少し降ったところには堀にもなる川床の深い河川が流れ、防御の為の城郭的な機能も保持していたと伝わる事も肯定出来ます。
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少し小道を登ったところに『腹切りやぐら』と書かれた石碑がございました。思わず合掌し北条氏が善政を敷いてくれた信州の地に生まれた人間としての御礼を申し上げたい次第です。
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奥に建てられいた石碑です。此の石碑を読んだ辺りから心の震えが止まりませんでした。詳しくは書きませんが、実は北条一族と我が家は此の時代において関係が有ったのです。
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信州の鎌倉と言われる別所温泉に鎮座する古刹北向観音も戦火で焼失した後に頼朝公が大事にしてくれた事も有り、北条一族が厚く崇敬しておりました。余計な話しとなりますが、信州では善光寺さんが来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすと言われております。
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北条一族と信濃との関係を確り話すと長くなるので簡単にご案内させて頂きます。まさに此の東勝寺において北条一族870余人が自刃する直前に、第14第執権北条高時の次男である亀寿丸を家人の中で特に信任を得ていた諏訪一族の諏訪盛高に預けました。盛高は乳飲子であった亀寿丸を諏訪までお連れし、諏訪大明神の現人神である大祝に託しました。大祝(金刺氏)に託したという事は、当然ですが洩矢一族にも庇護を受けたと言う事になります。そして亀寿丸は成長し元服致します。此れを機に亀寿丸は名前を北条時行と改めました。こうして当時の大祝であった諏訪時継と実父の頼重と共に挙兵したのです。此の戦は後に『中先代の乱』と言われました。此の軍に信濃の名族である滋野一族が剛力し大勢力となりました。更に支族である保科氏や四宮氏も参加して室町幕府の守護所を破却致しました。主力の諏訪勢と滋野一族は武蔵国において足利直義軍を蹴散らし、一気に鎌倉府に襲いかかったのです。鎌倉府は、呆気なく陥落し、北条時行は父祖の地である鎌倉を取り返しました。これを聞いた京在住の足利尊氏が鎌倉に救援に向かいたかったのですが、其の出立を後醍醐天皇が許さなかったのです。しかし尊氏は一族の為に鎌倉に向かいました。側から見ると勅命に従わなかったとなります。此れが後世まで裏切り者の誹りを受ける原因となりました。こうして北条時行軍は数に勝る足利本軍に敗北してしまったのです。此の話からも御理解頂ける様に信濃東勝寺は深い縁がございます。

因みに時行は此の後も生き残り南北朝時代になってからは、かつての仇敵だった南朝と手を組み、足利尊氏を討ち果たすべく動きました。北畠顕家新田義貞と共に杉本城の戦いで足利家長を打ち取り再度鎌倉の奪還に成功し、再度敗れるも後に勝利し、都合3回も鎌倉府を陥落せしめました。流石に執権北条一族の御曹司ですね。

道路から入り、川を渡る橋の袂には、小さい公園がありました。公園の名前は東勝寺ひぐらし公園です。強者達が散った跡地に『ひぐらし』の名前は、松尾芭蕉の『夏草や兵どもが夢の跡』の名句を思い起こさせます。
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北条氏滅亡と言えば大河ドラマ太平記』の片岡鶴太郎さんが演じた執権北条高時が思い起こされますね。NHKアーカイブさまより
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此のドラマでは業火につつまれる東勝寺内管領であった長崎円喜が最後に自刃しておりました。
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長崎円喜(ナガサキエンキ)役は名優フランキー堺さんが演じており、聞き迫る名演技だったのを覚えております。NHKアーカイブさまより
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ドラマでは燃え盛る東勝寺で一族の金沢貞頭も最後を迎えておりました。
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滞在時間は40分ほどですが、実に感銘深い史跡訪問となりました。しかし随行した若手社員には申し訳ない事をしてしまいました。

恥ずかしながら、その後の頭の中は遠く鎌倉末期から南北朝時代に飛んでしまっており、地獄の業火から逃げ延びた亀寿丸と勢いづいた新田義貞の軍勢が取り巻く鎌倉から幼子を連れて脱出し、その後も遥か信濃まで落ちのびた諏訪盛高の苦労を思うと中々仕事モードにはなれませんでした。営業職歴32年ですが、まだまだ修行が足りない証拠ですね。

 

因みに東勝寺は焼失後に再建されており、永正9年辺りまでは古文書によって其の存在が確認されておりますが、其の後に何らかの理由で廃滅となりました。東勝寺跡は発掘調査によって其の場所が確認されまております。此の後も貴重な歴史遺構として大事にされていってほしいと切に願った次第です。

鉄鍔の考察

梅の花が綺麗な季節です。晴れの日も雨の日も何とも可憐に目に映りますね。寒い冬が終わりそうな頃に咲く梅の花は春を予感させる花です。今なら手紙を書く時の時候の挨拶は『雨水の候』でしょうか。

昔の話ですが、士族の娘であった祖母がよく手紙を書いているのを横で見ておりました。祖母の名は愛子と言います。筆を取りサラサラと書き出す時の文言を今でも覚えております。意味が分からないモノはその度に祖母に聞いてみると、生真面目な祖母は筆を置いて確り説明してくれました。当時は意味が分からない箇所も有りましたが、今となれば有難い事だと感謝しております。

文字通り雨水(ウスイ)の中で一層美しさを増す紅梅(コウバイ)です。雨水で濡れた樹皮との相まって季節感を感じますね。
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今回は私の持っている鉄鍔の中で梅を題材とした鍔を一つご紹介致します。高額な美術的価値は有りませんが、責金(セメガネ)が残っておりますので、きっと先祖の指し料に付いていた鍔だと思います。

此方が責金と言います。鍔の中心孔(ナガゴアナ)の上と下に小さい銅の板を挟み込んでいるのが分かると思います。こうして刀身と鍔の隙間を責金で埋めて鍔のガタつきを抑えました。
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八艘の構えです。Wikiより
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時代劇などで刀を構えた時にガチャッと音がしておりますが、仮に暗闇での戦闘となった時にいちいちガチャガチャしたら相手に此方の位置がモロバレとなるので心得の有る武家はガタつきの無い様に細心の注意を払っていたそうです。登城時などには刀を入り口で預けますが、もしも其の時にガチャッとなったら問題に成るほど大事な事と書籍に有りました。

本題に戻りますが、此方が私の所属している鍔のうちで梅を題材としたモノです。

図柄は梅と賢人図です。鉄地に槌目仕上げとなっており、周囲の鉄を寄せて逞しい海の太枝で叩き出し、梅の花を銀象眼し、更に賢人の姿も周囲の鉄を寄せて打ち出され、顔に銀象眼が施され、賢人が立つ橋の下には雪解け水が勢い良く流れる降る様子が打ち出され、流れが春の陽光に輝いている様子を金の象眼で表しております。
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裏には隅に小さく枯れ草が打ち出されており、其処にも陽光にキラリと光る水滴が有ったのかは分かりませんが、とても小さい金の点象眼が一つ施されております。此の金色は恐らく色絵と呼ばれる技法だと思います。刀装具は此の様に控えめな意匠が多いのですが、気品のある控えめさが何とも言えずに好きなのです。
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鍔の周囲の部分を『耳』と言いますが、此の鍔は丸く仕上げられており、丸耳と言われる部類に入ります。
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此の鍔の様に縦に長い丸型の鍔は堅丸型鍔と言われる部類に入ります。賢人とはチャイナの魏晉の時代に深山の竹林に集まり、俗世に背を向けて琴を弾いて遊んだと言われている伝説の7人の思想家達のうち何れかの者だと思います。つまり曹操の魏から司馬懿の晉までの時代の方達ですね。

三国志を読まれた方は御理解頂けると思いますが、劉備の蜀、曹操の魏、司馬懿の晉までは、長い殺し合いの連鎖を誇るチャイナの中でも激動の時代でした。そんな俗世を生き抜いた高齢の賢人は、寒い冬が終わりを告げる様に咲いた梅の花を仰いで何を思ったのでしょうか。自国が滅ぼされた賢人なら、廃墟となった故郷の梅や家族と共に過ごした懐かしい時を回想しているかも知れません。一方で苦しくても必ず梅の花が咲く様に、明日に向かっての活力を梅の花から貰っているかも知れませんね。

梅の花です。
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米粒ほどの大きさに彫られた賢人の顔です。
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ご存知の様に3月は弥生です。弥は『あまねく』と言う意味が有り、生は『生きる』ですので、結びつけると『あまねく生きる』ですね。立派に生き生きとした梅の花は弥生の月に相応しい花であると感じながら、鍔の梅の花と賢人の顔を見て色々妄想しておりました。

此の話を名古屋から仕事で帰って来た次女に朝ごはんの食卓を囲みながら話したら『ふ〜ん、お爺ちゃんの顔が可愛いね』で終わり、長女も『へ〜』で終わってしまいました(笑)。明日で五十路を4つ超える父親のつまらない話でした。

別系統の神器 十種神宝 神仏習合 最終回

物部連氏が滅び、日本初の女性天皇である推古天皇は甥の厩戸皇子と叔父の蘇我馬子によって政治を行っておりました。推古天皇の父は欽明天皇です。

推古天皇 Wikiより
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少し時間を戻しますが、推古天皇の即位の前には押坂彦人大兄皇子厩戸皇子が候補に上がっておりました。押坂彦人大兄皇子は病弱で崇峻天皇が暗殺された頃に没してしまいました。その後は弟の竹田皇子と厩戸皇子皇位継承の表にたちますが、何方とも蘇我氏の血を引く者であり中々決まらずにおり、結局は馬子の姪である推古天皇が即位した流れです。

敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノオウジ)の子は推古天皇の後の舒明天皇(ジョメイテンノウ)となっております。

馬堀法眼喜孝画伯の舒明天皇です。
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因みに現在の皇室は此方の押坂彦人大兄皇子の男系子孫となっております。また押坂彦人大兄皇子舒明天皇中大兄皇子(天智天皇)となり、乙巳の変中臣鎌足蘇我氏を滅ぼす事になる系譜となっております。

乙巳の変、首を飛ばされているのが蘇我入鹿です。
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推古天皇の話が出たので、本文とは直接関係有りませんが、女性天皇女系天皇の違いをご案内致します。現在は声高らかに女性天皇でも良いじゃないかと言っている罰当たりもおります。

男系の連なりが必要な理由を少しお伝えします。此の話は天照大神素戔嗚尊の誓約(ウケイ)まで遡ります。高天原で対峙した二神は、其々神を産む事でお互いの潔白を証明したのです。

対峙する兄弟神です。
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天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から宗像三女神を産み、素戔嗚尊天照大神の勾玉を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から男の神様を5柱産みました。

天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕いて産んだ宗像三女神です。
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素戔嗚尊が産んだ5柱の神々の長男が天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)で有り、天照大神素戔嗚尊の遺伝子、つまり日の御子(ミコ)の遺伝子を持った神が誕生された事になります。そうして其の日の御子を受け継いだのが瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)であり、其の次が山幸彦(彦火火出見尊)であり、次が鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)であり、其の次がイワレビコです。当たり前ですが、日の御子の遺伝子を受け継いだ人物のみが天皇になる資格を持ちます。つまり天皇の子供でないと継げないのです。此の日の御子の遺伝子は女性からでは引き続ぐ事が不可能なのは皆様の知っている通りなのです。f:id:rcenci:20240223142303j:image

不敬を承知で例を上げますと、A天皇にお子さまが2人生まれました。此の2人が女性だとします。当然此の2人は日の御子の遺伝子を受け継いでおりますので天皇になれます。しかし仮に長女が天皇となり、何処かの馬の骨と結婚し男子を産んでも、其の男子は天皇には成れません。何故なら馬の骨氏の遺伝子から産まれた子だからです。もし馬の骨が中〇人なら、中〇人の子供を国民は絶対に天皇と認めず皇室の権威は崩れてしまい、先人達が2681年もの長きに渡り命を賭して守り抜いた日本は終焉を迎えてしまうからです。そうなると我々は黄泉の国に行っても先達の御霊に永遠に苛まれ続けるる事になりますね。絶対的な権威の臣民である日本国民は古来より大御宝(オウミタカラ)として扱われ、実際に政治を司る権力者は天皇の大御宝に対し、安心安全に暮らせる様に政治を行なうと言う日本独特のスタイルなのです。もし権力者が舵取りを間違ったら逆賊となってしまうのです。絶対的な権威が存在しない国では権力者が人民から搾取のみを行います。此れは北〇鮮、中〇人〇共〇国を見れば明白な事ですね。此の国体護持を維持する為に何十万もの同胞が命を落としました。国が有るから働く事が可能となり、日々の糧を得て子供を養えるのです。未来の子孫の為にこそ日本人は戦って来た事を忘れては成りませんね。
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また、此れは余り知られて無い事ですが、現在の天皇陛下は次の天皇を決める事は出来ません。決めるのは皇室会議と言われる会議のメンバーなのです。自分の後継を自分で決められない不自由さを想像してみて下さい。更に陛下は週に何時間も国民の為に祈りを捧げておられます。不敬を承知で申し上げると、プライベートは一切無い本当に御不自由な御身なのです。女性天皇を容認する方々は2681年もの長きに渡り自らの先祖が敬ってきた皇室を葬りさろうとしている事と同じ思想を持っている事になるのです。学校教育がどうのと言う話ではなく、親が子に教えるべき日本人の心得だと感じております。

宮内庁庁舎での皇室会議 平成29年12月1日  宮内庁のHPより
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言葉が過ぎました。どうかお許し下さい。
話を戻します。

593年に推古天皇が即位し、厩戸皇子は摂政となりました。推古天皇厩戸皇子は人々が安心して安全に暮らせる平和な世の中を目指し、最初に仏教を広めようと致しました。そこで594年に『三宝興隆の詔』が発布されたのです。

三宝を興して栄えさせよ」との詔です。諸々のに臣下達は其々の先祖の恩の為に、競って仏を祀る建物を作りました。此の建物を後に『寺』と言うようになったのです。三宝とは仏法僧の事であり、仏法僧とは『はとけ』と『ほとけの教え』と『ほとけの教えを奉ずる僧』の事です。こうして日本に後に飛鳥文化と言われる仏教芸術が花開きました。其々の寺は荘園を保有しており、僧侶が暮らしていく為の食糧は確保されて行ったたのです。

信州の田圃の畦に咲く水仙の花です。
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そして....

更に推古天皇は607年2月に『敬神の詔』を発布されました。以下が其の内容です。

古来わが皇祖の天皇達が世を治めたもうに、謹んで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても神祇の祭祀を怠る事があってはならぬ、群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。

此の詔を持って大王家は古来の神道を歩む事が明確に示されたました。此の二つの詔をもって日本は神仏習合の道を進む事になったのです。

此れはまさに酷い争いの後に見えた朝日の様だったに違いありません。
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此の様に仏教が人々の暮らしに有って不自然な状態では無くなった頃に改めて日本古来の天神地祇を厚く敬う事も奨励したのです。饒速日命から連なる大一族であった物部連氏が滅ぶ程に血みどろの戦いを行ったのですが、仏道に味方した勢力も寺を中心に生活が成り立ち、古来からの天神地祇を祀って来た勢力も大王(オオキミ)家が天神地祇を祀る事で安心して祭祀を行えるようになり、争うのでは無く、お互いに安心して日々の生活を営める様に取られた日本の大王(オオキミ)の勅命でした。勿論其の影には厩戸皇子の働きがあった事は言うまでもありません。厩戸皇子は天王家を敬う政策を取る事により蘇我馬子とは袂を分つ事になったようですが、此のところをご案内するには後3回は必要なのでやめておきます。

日本の凄いところは、良いモノは受け入れる包容力を有しながら、古来から伝わる大事なモノと確り共存させる事ですね。他の国なら血みどろの宗教戦争が何世紀も続くところですが、日本は此の時代から違っていた事になりますね。国歌にもある『...さざれ石の巌となりて 苔のむすまで』は『様々な種類の岩石が混じり合い一つの巌となってはじめて長く継続する国家と成する』と言う意味と解釈しているのですが、今の日本国を取り巻くきな臭い状況を鑑みますと今こそ一つの巌となる必要を強く感じる次第です。

木曽の南宮神社に鎮座する『さざれ石』です。左上から日の光が差し込む写真ですが私の理想図です。今回のシリーズは此れで終わりとさせて頂きます。毎回稚拙な長文にも関わらず、お付き合いの程、心から御礼申し上げます。
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